彩花市奇譚目録 紹介用短編
この街にやってきたのは三年前、大学を卒業して一年間遊び暮らした結果だった。小金持ちだった祖母に、シロップのようにべたべた甘えた二十年。財布に入れたこともない額を受け取って、逃げるように家を飛び出した。
就職、出来なかったわけではない。何社かから内定も取れていたし、親だって何の心配もしていなかった。
だけど、いや、だからこそ。
そんな予定調和に従うのが、どうにも納得いかなかったのだ。
行くあてもなく、けれどそれがまた嬉しかったりもして。半分世界から隔絶されたような気分で、あちらこちらを転々とした。その数ヶ月間で、私は今まで経験したことのない興奮を覚えた。街はこんなにも鮮やかで、夜はこんなにも暗くて。片田舎の大学だけの視野しかなかった私にとって、すべてが逆光を浴びた渇望のように、輝いていた。
そんな時だ、彩花市と出逢ったのは。
モン・アミティエの朝は遅い。
小さいながらも居心地の良い店内、優しげな笑みを浮かべるマスター。できればこの静かで素敵な時間がいつまでも続けばいいのにと思う。
祖母から受け取ったお金もそろそろ底をつくという頃、ひっそりと佇むこの喫茶を見つけた時、どうしてだか憧憬と焦燥を同時に感じた。此処でなければいけない、と。
古びた樫の扉を叩いて、未来を切り拓いた。こんなからっぽでも、受け入れてくれそうな気がした。
ここでアルバイトをして、もう一年になる。仕事も楽しく、お客との会話も、退屈しなくて良い。
自分なりに、この店とこの街について考えたことがある。その時は一周巡って『何の変哲もない、警戒する必要のない街』と結論づけたけれど、きっとそれはあの出来事を体験したからだと、思っている。
*
あれは、アミティエでバイトを始めてから一週間くらい経った頃だったと記憶している。店長の優しげな雰囲気もあって、仕事終わりに少しずつ話せるようになって嬉しかったのを覚えている。
少しの幸せをこころに保存したまま帰路に着いていたのだ。
街角に、一人の女の子が立っていた。見た目は完全に《ザシキワラシ》な、幼女が。
だけどどこか人間じゃあない気がして、視線がすうっとそちらへ向かってしまう。
これは、ただの直感。中二病的展開でもなければお話の世界でもない、ただの現実。
あれは、きっと――
「麻衣子ちゃん、それ以上意識を注いではいけない」
深い声色とは対照的な、荒々しい力で左腕を曳かれる。
「てっ、店長……」
「駄目じゃあないか、君も妖怪歴が長いなら判るよね? この街には、ヤクザより怖い人達がいるってことくらい」
衝撃が三つほど同時にやってくる。店長がこんな表情をするのだということ、私を妖だと見抜いていたこと、そしてなにより――
「もう遅いの」
ザシキワラシが、店長の真横でにこにこしているということ。
「……イツワサマ、今日のところはお引き取り下さい」
「嫌なの。この生意気な睡蓮を折るの!」
「そのようなことをなさりますと、《僕》もそれなりの対処をしなければなりません」
伏し目がちに淡々と述べる店長に対して、イツワと呼ばれたザシキは不満そうな顔をする。
「……まあいいの。この睡蓮ちゃんも雑魚っぽくもないし、暴れられたりしたら困っちゃうの。またコーヒーただ飲みさせるの、坂崎」
一気に自分の言いたいことを捲し立てると、彼女はふいと路地に消えていった。
額の汗を拭いながら、店長は言った。
「麻衣子ちゃん、説明は明日するから。今日はもう帰りなさい」
夜が一層、深まった気がした。
後日、店長から簡単に説明されたのは、あれはイツワサマという高級の妖で、あの時は機嫌が悪かっただけで、普通に生活していれば人畜無害な女の子だということだった。
人畜、と聴いて少し笑顔を見せると、店長も安心したようで仕事に戻っていった。
私も仕事しないとな、と思った矢先。一人のお客が入ってくる。
「コーヒー飲ませろ坂崎ー! あ、睡蓮のお前でもいいの!」
就職、出来なかったわけではない。何社かから内定も取れていたし、親だって何の心配もしていなかった。
だけど、いや、だからこそ。
そんな予定調和に従うのが、どうにも納得いかなかったのだ。
行くあてもなく、けれどそれがまた嬉しかったりもして。半分世界から隔絶されたような気分で、あちらこちらを転々とした。その数ヶ月間で、私は今まで経験したことのない興奮を覚えた。街はこんなにも鮮やかで、夜はこんなにも暗くて。片田舎の大学だけの視野しかなかった私にとって、すべてが逆光を浴びた渇望のように、輝いていた。
そんな時だ、彩花市と出逢ったのは。
モン・アミティエの朝は遅い。
小さいながらも居心地の良い店内、優しげな笑みを浮かべるマスター。できればこの静かで素敵な時間がいつまでも続けばいいのにと思う。
祖母から受け取ったお金もそろそろ底をつくという頃、ひっそりと佇むこの喫茶を見つけた時、どうしてだか憧憬と焦燥を同時に感じた。此処でなければいけない、と。
古びた樫の扉を叩いて、未来を切り拓いた。こんなからっぽでも、受け入れてくれそうな気がした。
ここでアルバイトをして、もう一年になる。仕事も楽しく、お客との会話も、退屈しなくて良い。
自分なりに、この店とこの街について考えたことがある。その時は一周巡って『何の変哲もない、警戒する必要のない街』と結論づけたけれど、きっとそれはあの出来事を体験したからだと、思っている。
*
あれは、アミティエでバイトを始めてから一週間くらい経った頃だったと記憶している。店長の優しげな雰囲気もあって、仕事終わりに少しずつ話せるようになって嬉しかったのを覚えている。
少しの幸せをこころに保存したまま帰路に着いていたのだ。
街角に、一人の女の子が立っていた。見た目は完全に《ザシキワラシ》な、幼女が。
だけどどこか人間じゃあない気がして、視線がすうっとそちらへ向かってしまう。
これは、ただの直感。中二病的展開でもなければお話の世界でもない、ただの現実。
あれは、きっと――
「麻衣子ちゃん、それ以上意識を注いではいけない」
深い声色とは対照的な、荒々しい力で左腕を曳かれる。
「てっ、店長……」
「駄目じゃあないか、君も妖怪歴が長いなら判るよね? この街には、ヤクザより怖い人達がいるってことくらい」
衝撃が三つほど同時にやってくる。店長がこんな表情をするのだということ、私を妖だと見抜いていたこと、そしてなにより――
「もう遅いの」
ザシキワラシが、店長の真横でにこにこしているということ。
「……イツワサマ、今日のところはお引き取り下さい」
「嫌なの。この生意気な睡蓮を折るの!」
「そのようなことをなさりますと、《僕》もそれなりの対処をしなければなりません」
伏し目がちに淡々と述べる店長に対して、イツワと呼ばれたザシキは不満そうな顔をする。
「……まあいいの。この睡蓮ちゃんも雑魚っぽくもないし、暴れられたりしたら困っちゃうの。またコーヒーただ飲みさせるの、坂崎」
一気に自分の言いたいことを捲し立てると、彼女はふいと路地に消えていった。
額の汗を拭いながら、店長は言った。
「麻衣子ちゃん、説明は明日するから。今日はもう帰りなさい」
夜が一層、深まった気がした。
後日、店長から簡単に説明されたのは、あれはイツワサマという高級の妖で、あの時は機嫌が悪かっただけで、普通に生活していれば人畜無害な女の子だということだった。
人畜、と聴いて少し笑顔を見せると、店長も安心したようで仕事に戻っていった。
私も仕事しないとな、と思った矢先。一人のお客が入ってくる。
「コーヒー飲ませろ坂崎ー! あ、睡蓮のお前でもいいの!」
作品名:彩花市奇譚目録 紹介用短編 作家名:ダメイジェン