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はじまりのアザレア

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「まーた泣いてんのか紫鶴は」
「だって名緒ちゃん」
 晴天の空、早春の折、絶好の卒業式日和。

 拝啓、海の向こうの母上様、貴方の一人息子はたった今、高等学校の卒業式を終え、晴れやかな気分のまま帰宅しようとしたところを、近所に住む一つ下の幼馴染に捕まり、目の前でわんわん泣いている様子を呆然と見つめている次第であります。

 紫鶴の泣き虫なところは、昔から変わっていない。肉体ばかり大きくなって、心臓はノミのようだ。おまけに泣き虫で、一人じゃ怖い映画も見られなかった。よくうちへ避難しに来たのを覚えている。ふ、と口角が上がると、紫鶴はまた大粒の涙を流した。
「明日から、名緒ちゃん、いないんでしょ、おれ、ひとりで、がっこう」
 しゃくりあげながら必死に訴えて来る弟のような存在に、胸が傷まない訳ではない。ただ、これはしょうがないことで、必ず越えなければならない障害なんだ。これを障害だと思えるお前の人生が心配だよ、俺は。おめでたいやつ。
「俺にべったりだと、お前もこの先困るだろ」
「困らないよう」
 俺より10センチ以上も背が高い癖に、子供のように背中を丸めて泣きじゃくる紫鶴は、幼少の頃と変わらない俺の可愛い幼馴染だ。
 けれど、紫鶴もいつかこの学校を卒業して、大学へ進んで社会に出る。色んな人と握手を交わし、笑顔で接し、時に怒り、悩み、喜びに咽び、悲しみに泣くだろう。その隣に、俺は必要ないのだ。
「俺がいなくてもいいように慣れておかなくちゃ駄目だ」
「なんで?そんなのいいよ、しなくていい」
「駄目なんだ」
 駄目なんだよ、声を荒らげてしまいそうになって、慌てて口を抑える。その手を、紫鶴が取った。泣き腫らした目を、まっすぐこちらへ向けながら、その力強い腕に抱き寄せられる。
「俺は名緒ちゃんがいればいい」
「しづる、」
「子供の時からずっと…そう思って、だから俺、この学校もすげー勉強して、名緒ちゃんに褒めてもらいたくて、一緒にいたくて、なのに、なんでそんなこと言うんだよ」
 鳴き声に混じりながら、頭上で切実な願いが叫ばれている。俺の知る朝日紫鶴は、こんなにも激情に熱い男だっただろうか。
「お前にもいつか、好きな子ができたら、そしたら分かるよ」
 肩を痛いほど揺すぶられ、それでもなんとか絞りだすように訴える。紫鶴の背中が震え、やがてそっと離れた。
「俺は名緒ちゃんが好きだけど、それは分からないよ」
「紫鶴、それは違う」
「違わないよ、名緒ちゃん、好きだよ」
 長い間、紫鶴の言う俺に対しての好意は、親愛の情だと疑わなかった。だっておかしいだろ、もう成人に近い図体のでかい男が、同じ男で年上の俺を好きになるなんて、そんな都合のいい話なんかない。
 俺だけに都合のいい紫鶴など、存在してはならないのだ。
「名緒ちゃんはいつも俺の気持ちを否定する」
 肩が鳴る。紫鶴の腕に力が入ったからなのか、図星を突かれたからなのかは、分かり兼ねた。
「だってお前は」
「いつもそうやって誤魔化す、どうして目を逸らすの、俺を見てよ」
 地面が揺らいだ気がした。燃えるように目尻が熱い。脳がパンクしそうだ。もしかして俺は、途轍もない勘違いをしていた?
「名緒ちゃん」
「やめろ」
 腕を伸ばして突き放すが、よろけたのは俺の方だった。腕を掴まれる。いやだ。もう触れていて欲しくない。
 俺はお前の、その強引さが嫌いだ。学校でも構わず名緒ちゃん名緒ちゃんって、子供じゃないんだぞ。何度佐藤たちに白い目で見られたことか。お前の犬だな、あれ、だと。背が高くて声がでかいから、お前が来ればすぐに分かるよ。
 体育の時だって、校外マラソンの時だって、文化祭の時だって、お前の部活の試合の時だって、いつだって俺の元へ走ってきた。それが当たり前だって、俺もお前も思っていたはずだ。ずっと兄弟みたいなものだって思っていたから。だから。
「本当に好きなら、軽々しく口に出すな。お前の愛情表現は、分かりやすいようで全然分からないよ。分かってんの?どれだけ好きでも、ずっと一緒にはいられないんだよ」
 それは、願望で、切望で、熱望で、羨望で、そうでなければならないという、ひとつの願いだった。いや、もう分かっているはずだ。俺も紫鶴と離れるのが、嫌なんだ。
「それでも」
 いつの間にか流れていた涙を拭い、紫鶴の次の言葉を待つ。望んだものはただ一つだけ。側に。
「名緒ちゃんが好きだよ」
「馬鹿紫鶴」
「名緒ちゃんが泣いてるとこ、初めて見たなあ」
「うるさいうるさい、もうしらね」
 乱暴に目をこすって紫鶴を背に、今度こそ帰路へつく。放り投げた鞄をふたつ、胸に抱いて後ろをついてくるであろう紫鶴を予想して、少しだけ歩みを緩めながら。


 拝啓、海の向こうの父上様。母上様とは春のバカンスをお楽しみでしょうか。貴方がたが愛し合い生まれてきた僕は、そうして先人と同じように、今、新しい気持ちが芽生えようとしています。この気持ちに名前を付けなければなりませんか?それはもう少し、後に取っておこうと思います。
作品名:はじまりのアザレア 作家名:桐重