氷上の亀裂
彼女のプロ・フィギュアスケーターとしてのキャリアは、大学のスケート部卒業と同時に始まった。現在は地域のスケート教室のインストラクターをして生活している。
五歳から始めたというフィギュアスケートは、将来を考える年齢になる頃にはすでに、彼女自身の人生と切り離せないものとなっていた。
あるとき、早朝五時から練習を始めるためにベッドを抜け出そうとする彼女を、引き留めてみたことがある。僕たちはまだ付き合い始めたばかりだったし、一緒に暖かい布団の中で過ごす時間が、人生で一番貴重な瞬間だと信じていたから。
だけど彼女は笑ってジャージのジッパーをあげながら言うのだった。
「スケートは私にとって、もはや競技じゃないの。習慣なのよ」
彼女の習慣を育て続けてきたのは彼女の実家のそばにあるこのリンクであり、彼女の汗も涙も、挫折も歓喜も成長も痛みも、体重の増減さえも知り抜いているのはこのリンクだけだった。
彼女の親代わりのようですらある、と僕が考えているこのリンクは、だがしかし、明日から取り壊しが決定している。
もともとここは公営のスポーツセンターだったのだが、町の過疎化が進むにつれて利用者が減り、ただでさえ維持費用のかかるスケート場は行政に真っ先に切り捨てられた。彼女が旗振りをして募金活動を行ったが、行政に提示された目標額には遠く及ばず、あっけなく取り壊しが決定したのだった。
がつん、と大きな音がして、僕が顔を上げると、リンクの中央から氷の上にひびが入っていた。彼女はいつのまにかスケート靴を手に握っていて、そのステンレスの刃の先がリンクの真ん中に突き刺さっている。
完璧な不規則さで描かれた幾本もの亀裂がリンクの上に描いていたのは、断絶そのものだった。彼女の希望の。あるいは、だれかの未来の。
「結果がすべてじゃないと言う人は多いし、私もそう思ってきた」
普段は静かな口調で淡々と話す彼女が、めずらしく声を張り上げていた。
ここには僕と彼女の二人しかいないのに、だがその言葉は僕に向かって発せられているものではないことは分かっていた。
「けど、結果を出さなければ守れないものがある。自分さえ幸せでいればいいと、仮にそこそこの結果でも、自分なりに成長していければ競技をする意味があると思って、やってきた報いがこれよ。何の実績もない。何も守れなかった。
私よりずっと才能がある子どもたちがたくさんいるのに、これを機にほとんどの子がスケートを辞めてしまう。私がやってきたことはなんだったの? これまでやってきたことが、何も残らずに終わってしまった」
語尾の震えた彼女の言葉は、滴となって割れた氷の上に染みをつくっている。