書物はいったい誰のもの?
最近・・・というか昔からそうですが、創造者(小説家や漫画家)の作り出した創造物を意にそぐわない形で歪め、それをあたかも肖像者の意向であったかのように作られた物が増えたように気がします。
それを脚色だと言い張る脚本家。もちろん大人の事情もあって仕方がない事なのかもしれません。最近であれば芦屋哲さんの「美味しんぼ」の鼻血の件。
もっと前であれば宮部みゆき先生の「模倣犯」映画試写会の途中退場の件。
やっとの思い出生み出した我が子をまるで問題児のように扱われ、歪んだ愛で育てられていく。
私はこのような問題が起きるといつも思うことがある。
「書物は一体誰の物?」と。
これでも一応、文を書き、そして多少なりとも読んでくれる人がいらっしゃる。
いわば、創造者。端くれではありますが。
私が小説を書き始めたころから思っていたのですが、
「書物は読者の物」だと。
それは今でも変わらない。
苦労して産み、それを育てるのは読者だと。
私がここはこう感じてほしいなぁと思っても違ったとらえ方をされる。
人それぞれ感じ方とらえ方は違うのは仕方がない。それを強要するつもりもない。
書物はもっと自由でいいのだと思う。
どうとらえてもいい・・・。
でも、非難するのはやめてほしい。
もちろん書き手も非難される覚悟を持って書かないといけないが・・・
だけど・・・・思うのは厭だったら読まなければいい・・・。
わざわざ人に言う事ではない。
書物は素晴らしい。人は文字を考えだし、使い、人々の感情を揺さぶる最高のアイテムなのに。
なんだか私は悲しい。
書く気も失せていく。
だけど、私にはこれしかないのだ。
だからこれからも書いていくでしょう。
「書物はあくまでも読み手の物」
私の書いた想像をさらに膨らませて楽しんでほしいのです。
私はとみにそう思う。
作品名:書物はいったい誰のもの? 作家名:夏経院萌華