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みやこたまち
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novelistID. 50004
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瞼裏の残層 1 緑の猿・官能的

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学校だ。薄暗い。木造校舎だ。小学校5年の同窓生が、5年生の姿で、机と椅子との間を埋めている。天井をせわしなく行きかう反射光がある。きっと、中庭の池の端から張り出した百日紅の赤い花にむかって、無数の鯉が、競って口を開けているのだ。そこに水中の蛙の卵の半透明な陰影があいまって、ゆらゆらと落ち着かないのだ。
 中学二年生の時に亡くなったOの席も、きちんと埋まっている。見ようとすれば目が眩むほどの逆光の中で、彼は高等数学の問題集を嬉々として解いていた。

 僕の席は、廊下から二列目の、一番先頭だった。日陰だが、寒くはない。

 すぐ後ろから、ピアノの上手な女生徒の匂いがする。太陽の光をいっぱい含んだ、豊かなおかっぱの髪は、彼女が首を傾げる度に空気をはらんで、一時、重力から解き放たれる。すると、その匂いがあたりに広がる。僕はピアノには反対だといっている。それは彼女が『アイアイ』を弾いているのを聞いたときから、譲れない。ピアノは、彼女の匂いを一瞬で撒き散らし、節くれだった指を折ろうと身構えていると知ったからだ。

 あの頃、放課後をいつも一緒にすごしていた友達は右斜め後ろの席だ。そこは彼女の隣だった。あいつの指先からは、いつも、油粘土の匂いがした。僕達は、放課後になると、粘土で様々な猿をつくり、戦わせては、まぜこぜにしていた。
 あいつとの会話を、何一つ思い出せない。あいつと僕との間には、いつも緑色の猿がいて、会話といえば、猿の鳴きまねだけだった。

 あいつの席は一番廊下側でもある。壁は、床から40センチの高さの廊下へ通ずる引き戸になっていて、大きく開け放たれている。あいつは、監督教師の目を盗んで、その矩形から、廊下と教室とを、手長猿のように往復し続けている。あいつの軌道が、暗い湿り気を帯びて熱い。彼女はそれを横目に忍び笑いをしている。僕はあいつに、何往復したかを数えていてくれと言われていた気がしていたが、あいつの姿を捉えることはできなかった。油粘土の匂いのする空間に獣じみた匂いが混じり、闇は次第に濃くなっていく。廊下はもっと暗く、湿っぽかった。

 皆の机の上には、テスト用紙が互い違いに並んでいた。大きなプリントと小さなプリントの市松模様だ。これは、前後左右からのカンニングを防ごうという作戦だ。友人が敷居を往復するときに立てる軋みと、くちゃり、と何かが砕けるような音だけが、延々と続いている。

 その前に、休み時間があった。トイレに行った。広いトイレだった。それは体育館だったのかもしれない。和式の大便器にプカプカと浮かぶ玉を目掛けて、あいつとは別の友達と一緒に何か競っていた。玉はなすすべもなく、くるくると回転しながら、欠けて、砕けて、穴が開き、そして無数に増えていった。僕達はその数を競ってでもいたのだろうか。

 放課後、罰掃除をさせられた時、掃除範囲には暗い廊下も含まれていた。ワックスを塗りすぎたかのように、ヌルヌルとした廊下の総延長は、かっこうの遊び場になった。

 その休み時間の前に、自習があった。三日も前から自習になると分かっていた。そこで、テスト勉強をすれば良かったのだが、その次の授業がテストだなどとは、まだ知らされていなかった。だから、僕は彼女と、机の並べ方について相談していた。彼女のノートを四角で埋めていく。彼女の鉛筆は2Bで、僕のはFだった。彼女の芯は、少し丸くて、僕の芯はねじくれて尖っていた。僕は自分で鉛筆を削るので、いつもそういう状態になっていた。ねじくれ尖った先で、彼女の柔らくて丸い先端を傷めた。彼女はむきになって、押し返してきた。彼女の先端が削れて、割れて、僕の先っぽが浅く沈み込んだりしていた。ノートは、彼女が書こうとしていた四角と、邪魔をする僕の放物線とで、埋まっていた。その放物線からは、油粘土の匂いが漂っていた。

 その相談は何時の間にか、四角い箱を避けるため、僕の布団の上を斜めに横切るように、彼女の布団を敷く、という話に変わっていた。

 そして机の上では、猿が食べ残した蟹が、いくつも潰れていた。

 それはそれとして、彼女と、布団の敷き方を相談するというのは、非常に官能的なことに思えた。

「はい。そこまで」
 試験監督教師の声がした。後ろからみんなの答案が回ってきた。彼女の答案用紙は、2Bの鉛筆で書いた丸で、埋め尽くされていた。そして、その隣のあいつは、全身からどろどろとしたものを滴らせていて、あいつの答案用紙からも、ぼたぼたと白濁した何かが垂れていた。

 その後、僕は、カンニングをしたかどで、職員室に呼び出された。廊下はワックスを塗りすぎたようにベタベタしていた。職員室は、ほとんど何も見えないくらい真っ暗だった。そこで正午まで説教をされ、目玉を一つ没収された。罰掃除は昼食の後だ。(1 終)