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雌蜘蛛

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僕が彼女に出会ったのは必然のことだと思った。

会ったその時から その肌の温もりを僕は知っていたかのように引き寄せられたからだ。
今まで人生という路を 僕はこの日に向かって歩いてきたのかもしれない。


初めて呼び止められた路。

綺麗な空だった。晴れたその青さを見上げた僕の目の前に きらりと糸を光らせて現れたのは一匹の蜘蛛だった。空を見上げたまま 視野の端に映り込んだそれが何かということもわからないまま、手を出してしまっていたのだ。掌に受け止めて驚いた。それが蜘蛛だという驚きではなかった。怖いとか 気持ち悪いとか ほかの嫌悪の言葉や感情が湧いてこなかったことへの驚きだった。警戒もなく僕の掌に八本の脚をおろし、大きな顎は噛むこともなく 僕が映りそうな艶やかな目に魅入られたあの日は 僕の恋のはじまりだった。

選択を強いられた路の分岐点。

僕が迂闊にも招いたこととはいえ、僕の掌に乗せてしまった蜘蛛を はらいのけようか、それとも握りつぶすか、僕の傍に連れて行こうかと迷った。今はじっとしているとはいえ 僕の何らかの行為で 何をしでかすのか…… 糸を吐き、さらに地上へと降りていくのか。毒を吐き、僕の神経を麻痺させるのか。彼女の瞳に映る僕は、ただぼんやりと 彼女の行動を待つだけのつまらない男に見えた。それを見透かされたように、彼女は吹いた一陣の風に乗って近くの樹へと飛んで行った。目で追うこともできず、そのまま別れた。

後悔に背を押されながらの帰路。

彼女の重みはどれくらいだったのか。そんな余韻も残らないほどの軽さと 胸に抱いた後悔の重さ。比べられるものではないが、こののしかかるような胸の苦しさは僕の足を重くしていた。彼女の糸に 手繰り寄せられたのか、(何と云っていいものか)こう… 引っ張られていたはずの両の手は たっぷりと取り巻かれ締め付けられたのに いつしか軽く自由になって 気付けば目の前の路を独りで進むしかなかった。空しさだけが残った。

運命の再会をした路。

逢えるだろうか。そう願いながら幾度 古巣を眺めただろう。主人の居ない場所に朝露が光っていた。彼女の瞳を思い出す。はたと視線を感じた。柔らかく見つめられる感覚に僕は気付いた。彼女だった。出会った時よりも ひとまわり大きく感じられたのは、僕の気持ちの中の彼女の存在感の所為だろう。僕は自然に掌を向けた。彼女が降りてきてくれるなら…… この掌に温もりを感じられたら…… 僕はこの運命を受け入れよう。

戻れぬ路。

彼女が、僕の掌に脚をかけた。煌めく糸は獲物を捕らえるときの粘着のあるものだった。僕の掌に纏わりつく。その途端、彼女の顎が僕の指先を噛んだ。チクッ。痛みが走った。それは、彼女の僕への求愛行動だった。彼女の瞳が囁く。意識が僕を惹きつけて離さない。
噛まれた指先から痺れてくる。彼女の魅力が…… 朦朧と彷徨う意識。あとは… あとは… 僕は彼女を抱きしめた気がした。

旅立ちの路。

気付けば、僕は柔らかな場所にいた。陽射しが近い。此処は…… 彼女の横顔が間近にある。彼女に手を あれ? 手を 何故だ? 僕は、近くにいる彼女に触れられない。彼女の優しい瞳は妖しげに艶々と潤い、そして鋭く僕を見据えた。
『ありがとう。素敵なひとときだったわ。怖がらなくてもいいの。これからとけあうのよ』
声なき、思考が囁いてくる。
真綿で包まれたような温かさ。それに彼女の冷やかな熱い視線に僕が映り込む。彼女は僕よりもずっと大きく見えた。そして、僕はやっと気付いた。彼女の愛を受け入れ、完結する時が迫っていることを知った。
哀しい。だけど、最高の快感を彼女がくれるはずさ。僕の魂が旅立ちを迎える。彼女との永遠を誓おう。彼女が最後の慈悲を僕に与える。体だけでなく頭まですっぽりと覆い隠す。糸の隙間から彼女の美しい容姿を見つめる。しだいに消えていく。そして僕の意識も薄れていく。体に巻きついた糸に締め付けられて、もう動けないよ。


僕は。
叶った。
永遠に彼女と。
ひとつになれた喜び。
幾度も幾度も 僕の血肉は。
彼女の糧になりながら 新しい命の為に。


     ― 了 ―
作品名:雌蜘蛛 作家名:甜茶