後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】
別離と再会
芳華は微笑を浮かべ、広い室をゆっくりと見回した。子どもたちが期待にきらきらと瞳を輝かせて芳華を無心に見つめている。
彼女は手を軽く打ち鳴らし、声を張り上げた。
「では、本日の講義はここまでとします。今日、習った箇所は各自、家できちんと復習してきて下さいね。明日はちゃんと憶えられているかどうか、簡単な試験をします」
試験と聞いて、子どもたちからどよめきが返ってくる。芳華は苦笑した。
「学問というものは習いっ放しでは身につきません。何度も繰り返し復習してこそ、初めて身につくものです。試験は何も優劣を競うものではないのだから、自分がどれだけ学んだことを修得できているかどうかを知る手段とすれば良いのですよ。間違えたところをきちんと憶えていけば、いずれ知識は完全なものになりますからね」
言い終わらない中に、子どもたちが立ち上がる。芳華に向かって、それぞれ頭を下げてた。
「今日のご指南、ありがとうございました」
後は一斉に駆け出していく小さな後ろ姿を見送りながら、芳華は知らず頬を緩めた。芳華は数日に一度の割合で、近隣の子どもたちに読み書き、計算などを教えている。
幼い時分から皇帝の妃候補として教育を受けているだけに、芳華は当時の女性としては相当に高度な学問も修めていた。そんな彼女からすれば、実に初歩的なことを教えているにすぎないのだが、学校にもろくに通えないその日暮らしの貧しい民にとっては十分すぎるほどの知識だ。
最初は少し生活水準が上の商家の子どもばかり数人だったのが、いつしか評判を聞きつけた貧民の子が親に連れられてやってくるようになった。
―この子がどうしても字を憶えたいと申しまして。
ろくな束脩も支払えないのだと決まり悪げに言う両親に、芳華は微笑んで言った。
―お金なんか要りませんから、明日からすぐにでも来て下さいね。
子どもは飛び跳ねて歓び、両親は眼を潤ませて幾度も芳華に頭を下げて帰っていった。以来、その子は誰よりも熱心に学んでいる。裕福な商人の子よりはよほど物覚えも早いし利発だ。
これからどんどん難しい学問を学んでゆけば、いずれは一角の人物になれる器を持つ子どもに違いない。しかし、そこで芳華は暗い想いに沈んだ。
今の操では身分制度がきっちりと固まっていて、人は生まれたときの身分から生涯抜け出すことはできない。皇帝の子は産まれながらに皇帝であり、貧民の子はずっと貧民のままだ。たとえどれだけ本人に優れた才能があったとしても、生まれ持った身分から抜け出せない。
もし、貧しい民にも無償で学べる公立の学校があれば、もっと有能な人材を育てることができるだろうのに、残念なことだ。もし自分が男に生まれていたら、ゆくゆくはそういう官立の学校を建て、誰でもが学べる環境をこの国に作りたい。私塾を開いて大勢の子どもたちを教えるようになってから、芳華はそんなことを考えるようになった。
郁家の屋敷奥深くで大切にかしずかれて暮らしていた頃には、考えもしなかっことだ。いわば、それだけ彼女は市井で暮らすようになって、広い世間の中の様々な人々を見た証でもある。そして、父の言うなりではなく、自分自身で考えて行動するようになったのだ。
だが、昔のように後宮にいて皇帝の貴妃という立場であればともかく、今のただ人となった芳華には何もなすすべはなかった。
いや、今の操では、女性は生涯、屋敷の奥深くで大人しくしているべきだというのが常識だ。たとえ貴妃の立場をもってしても、国政に口を出すことは許されない。皇帝の次に国を動かす権限を有する皇后であればまた別の話だが、後宮を出た芳華には最早、関係のない話である。
今の彼女にできるのは、こうして一人でも多くの子どもたちに自分の持つ知識を伝えてゆくことだけだ。
芳華が想いに耽っていると、彼女の上衣の裾を小さな手が引っ張った。
「先生」
「青琴ちゃん」
李青琴は近くの下級官吏の娘だ。官吏とは名ばかりの本当の下っ端で、金持ちの商家の子どもの方がよほど身なりも暮らしも良い。青琴は今年、八歳になる。芳華が開いている私塾も青琴の父のつてで、長らく空き家になっていた富豪の隠居所を借りて行っている。
「先生、お腹が大きくなったねぇ」
青琴は興味津々といった様子で、こんもりと盛り上がった芳華の腹部を見つめている。
「そう? そういえば、そうかな」
懐妊判明から既に四ヶ月が経っている。年が明けて今は二の月、時折診て貰っている産婆の雲婆さんにもにこにこしながら?経過は順調?と太鼓判を押して貰っている。腹の子はもう六ヶ月になるのだから、お腹が大きくなっても不思議はない。
最近はとみに腹部が大きくなって、細身の芳華でもひとめで妊婦だと判るほどになった。何より良人の法明が歓び、毎朝、行商に出かける前には芳華の膨らんだ腹を愛おしげに撫でて?行ってくるぞ?と声をかけている。
そんな彼の姿を見る度に、芳華の彼への想いは深くなる。子どもももちろん可愛いけれど、いちばん大切なのは法明だとすら思ってしまうのだった。
「ね、触っても良い?」
青琴が訊ねるのに、芳華は頷いた。
「青琴ちゃんみたいに可愛い女の子が生まれますようにってお願いしてみてね」
小さな手が恐る恐る芳華の膨らんだ腹に伸びる。おっかなびっくり触っていた青琴がいきなり声を上げた。
「あっ」
「どうかした?」
優しく問いかけると、青琴が小さな貌に興奮の色を上らせた。
「動いた、先生、お腹の赤ちゃんが動いたよ」
「どれどれ」
芳華もそっと腹に触れる。と、大きく膨らんだ腹が確かに動いた。
「本当ね、赤ちゃん、今は起きてるんだわ」
青琴が不思議そうに言う。
「先生、お腹の赤ちゃんって、いつもこんな風に動くの?」
「そうね、眠っているときは動かないし、起きているときはこんな風に動くのかな」
「うわあ、何だか面白い」
青琴と顔を見合わせて微笑んだその時、笑いを含んだ声が間近で響いた。
「何だ、随分と愉しそうだな」
「あ、法明兄ちゃん」
青琴が歓声を上げる。纏いつく青琴の小さな身体を法明は軽々と抱き上げた。
「青琴、頑張ってるか?」
「うん、色々と憶えるのは愉しいよ」
「そうか。これからも頑張るんだぞ」
「―はあい」
元気よく応えた青琴をそっと下ろし、法明は満面の笑みで頭を撫でる。どうやら、法明は子どもが好きらしい。いつも私塾の子どもたちを見かけると気軽に声をかけている。子どもたちも子どもたちで彼に良く懐き、?法明兄ちゃん?は人気者だった。
「それじゃ、先生、法明兄ちゃん、さようなら」
「さよなら」
「気を付けて帰れよ」
芳華と法明に笑顔で手を振り、青琴は意気揚々と帰っていった。
「法明は意外と子ども好きなのね」
つい本音が出ると、法明は心外そうな顔をした。
「意外とは失礼だな。俺は前から子どもは好きだぞ。お前が産む俺たちの子も早く見たい」
な、おチビさんと、法明が芳華の大きな腹を愛おしげに撫でた。
「あら、でも、最初に私が見たときは若い女の子の客たち相手に愛想を振りまいてたじゃない。私はあの時、あなたは女好きのタラシだと思ったのよ」
法明がうっと言葉に詰まる。
芳華は微笑を浮かべ、広い室をゆっくりと見回した。子どもたちが期待にきらきらと瞳を輝かせて芳華を無心に見つめている。
彼女は手を軽く打ち鳴らし、声を張り上げた。
「では、本日の講義はここまでとします。今日、習った箇所は各自、家できちんと復習してきて下さいね。明日はちゃんと憶えられているかどうか、簡単な試験をします」
試験と聞いて、子どもたちからどよめきが返ってくる。芳華は苦笑した。
「学問というものは習いっ放しでは身につきません。何度も繰り返し復習してこそ、初めて身につくものです。試験は何も優劣を競うものではないのだから、自分がどれだけ学んだことを修得できているかどうかを知る手段とすれば良いのですよ。間違えたところをきちんと憶えていけば、いずれ知識は完全なものになりますからね」
言い終わらない中に、子どもたちが立ち上がる。芳華に向かって、それぞれ頭を下げてた。
「今日のご指南、ありがとうございました」
後は一斉に駆け出していく小さな後ろ姿を見送りながら、芳華は知らず頬を緩めた。芳華は数日に一度の割合で、近隣の子どもたちに読み書き、計算などを教えている。
幼い時分から皇帝の妃候補として教育を受けているだけに、芳華は当時の女性としては相当に高度な学問も修めていた。そんな彼女からすれば、実に初歩的なことを教えているにすぎないのだが、学校にもろくに通えないその日暮らしの貧しい民にとっては十分すぎるほどの知識だ。
最初は少し生活水準が上の商家の子どもばかり数人だったのが、いつしか評判を聞きつけた貧民の子が親に連れられてやってくるようになった。
―この子がどうしても字を憶えたいと申しまして。
ろくな束脩も支払えないのだと決まり悪げに言う両親に、芳華は微笑んで言った。
―お金なんか要りませんから、明日からすぐにでも来て下さいね。
子どもは飛び跳ねて歓び、両親は眼を潤ませて幾度も芳華に頭を下げて帰っていった。以来、その子は誰よりも熱心に学んでいる。裕福な商人の子よりはよほど物覚えも早いし利発だ。
これからどんどん難しい学問を学んでゆけば、いずれは一角の人物になれる器を持つ子どもに違いない。しかし、そこで芳華は暗い想いに沈んだ。
今の操では身分制度がきっちりと固まっていて、人は生まれたときの身分から生涯抜け出すことはできない。皇帝の子は産まれながらに皇帝であり、貧民の子はずっと貧民のままだ。たとえどれだけ本人に優れた才能があったとしても、生まれ持った身分から抜け出せない。
もし、貧しい民にも無償で学べる公立の学校があれば、もっと有能な人材を育てることができるだろうのに、残念なことだ。もし自分が男に生まれていたら、ゆくゆくはそういう官立の学校を建て、誰でもが学べる環境をこの国に作りたい。私塾を開いて大勢の子どもたちを教えるようになってから、芳華はそんなことを考えるようになった。
郁家の屋敷奥深くで大切にかしずかれて暮らしていた頃には、考えもしなかっことだ。いわば、それだけ彼女は市井で暮らすようになって、広い世間の中の様々な人々を見た証でもある。そして、父の言うなりではなく、自分自身で考えて行動するようになったのだ。
だが、昔のように後宮にいて皇帝の貴妃という立場であればともかく、今のただ人となった芳華には何もなすすべはなかった。
いや、今の操では、女性は生涯、屋敷の奥深くで大人しくしているべきだというのが常識だ。たとえ貴妃の立場をもってしても、国政に口を出すことは許されない。皇帝の次に国を動かす権限を有する皇后であればまた別の話だが、後宮を出た芳華には最早、関係のない話である。
今の彼女にできるのは、こうして一人でも多くの子どもたちに自分の持つ知識を伝えてゆくことだけだ。
芳華が想いに耽っていると、彼女の上衣の裾を小さな手が引っ張った。
「先生」
「青琴ちゃん」
李青琴は近くの下級官吏の娘だ。官吏とは名ばかりの本当の下っ端で、金持ちの商家の子どもの方がよほど身なりも暮らしも良い。青琴は今年、八歳になる。芳華が開いている私塾も青琴の父のつてで、長らく空き家になっていた富豪の隠居所を借りて行っている。
「先生、お腹が大きくなったねぇ」
青琴は興味津々といった様子で、こんもりと盛り上がった芳華の腹部を見つめている。
「そう? そういえば、そうかな」
懐妊判明から既に四ヶ月が経っている。年が明けて今は二の月、時折診て貰っている産婆の雲婆さんにもにこにこしながら?経過は順調?と太鼓判を押して貰っている。腹の子はもう六ヶ月になるのだから、お腹が大きくなっても不思議はない。
最近はとみに腹部が大きくなって、細身の芳華でもひとめで妊婦だと判るほどになった。何より良人の法明が歓び、毎朝、行商に出かける前には芳華の膨らんだ腹を愛おしげに撫でて?行ってくるぞ?と声をかけている。
そんな彼の姿を見る度に、芳華の彼への想いは深くなる。子どもももちろん可愛いけれど、いちばん大切なのは法明だとすら思ってしまうのだった。
「ね、触っても良い?」
青琴が訊ねるのに、芳華は頷いた。
「青琴ちゃんみたいに可愛い女の子が生まれますようにってお願いしてみてね」
小さな手が恐る恐る芳華の膨らんだ腹に伸びる。おっかなびっくり触っていた青琴がいきなり声を上げた。
「あっ」
「どうかした?」
優しく問いかけると、青琴が小さな貌に興奮の色を上らせた。
「動いた、先生、お腹の赤ちゃんが動いたよ」
「どれどれ」
芳華もそっと腹に触れる。と、大きく膨らんだ腹が確かに動いた。
「本当ね、赤ちゃん、今は起きてるんだわ」
青琴が不思議そうに言う。
「先生、お腹の赤ちゃんって、いつもこんな風に動くの?」
「そうね、眠っているときは動かないし、起きているときはこんな風に動くのかな」
「うわあ、何だか面白い」
青琴と顔を見合わせて微笑んだその時、笑いを含んだ声が間近で響いた。
「何だ、随分と愉しそうだな」
「あ、法明兄ちゃん」
青琴が歓声を上げる。纏いつく青琴の小さな身体を法明は軽々と抱き上げた。
「青琴、頑張ってるか?」
「うん、色々と憶えるのは愉しいよ」
「そうか。これからも頑張るんだぞ」
「―はあい」
元気よく応えた青琴をそっと下ろし、法明は満面の笑みで頭を撫でる。どうやら、法明は子どもが好きらしい。いつも私塾の子どもたちを見かけると気軽に声をかけている。子どもたちも子どもたちで彼に良く懐き、?法明兄ちゃん?は人気者だった。
「それじゃ、先生、法明兄ちゃん、さようなら」
「さよなら」
「気を付けて帰れよ」
芳華と法明に笑顔で手を振り、青琴は意気揚々と帰っていった。
「法明は意外と子ども好きなのね」
つい本音が出ると、法明は心外そうな顔をした。
「意外とは失礼だな。俺は前から子どもは好きだぞ。お前が産む俺たちの子も早く見たい」
な、おチビさんと、法明が芳華の大きな腹を愛おしげに撫でた。
「あら、でも、最初に私が見たときは若い女の子の客たち相手に愛想を振りまいてたじゃない。私はあの時、あなたは女好きのタラシだと思ったのよ」
法明がうっと言葉に詰まる。
作品名:後宮艶夜*ロマンス~皇帝と貴妃~【後編】 作家名:東 めぐみ