霧雨堂の女中(ウェイトレス)
と応じ、急いでパジャマを脱ぎ始めた。
幸い枕元にはお医者に着ていったジーパンとシャツの軽装が折りたたんでそのままそこにある。
1分で着替えて、例えがたい寒気を身にまといながら、私は階下へ続くやや急な階段をトントンと降りていった。
居住スペースからお店の中に足を踏み入れると、まさにレジの前にその人は立っていた。
ぐるりと見渡したが、幸い他のお客はいなかった。
中年・・・というよりは壮年といった感じだろうか?
丸眼鏡をかけて、頭髪はやや長めで、黒く横に流している。
だけどズボンは妙にピカピカだ。
まるでラメでも入っているかのようで、蛍光灯にキラキラするその生地は、私に魚のうろこを思わせた。
杖をつき、その男性はふわあと退屈そうなあくびをひとつ伸ばした。
シンク付近にはタオルが一枚あったはずなので、私は素早くそれを探して鼻の下にぐるりと巻いてマスクの代わりにした。
せめて飛沫感染を防ぐ努力を少しでもしなければいけない。
そう思った途端に咳の発作が押し寄せたので、私は慌ててその人から顔を背けた。
そしてそのまま背中を丸めてひとしきり咳き込むと、本当に申し訳ない思いばかりで気分が暗くなった。
「本当にお構いなく」
と、この男性は本当にのんびりと私に告げた。
一体この余裕の根拠は何なんだろう?
私が心の底でそういぶかしんでいると、この男性は『ふむ』とでもいうかのように小首をかしげ、続いて『ああ!』とでもいうかのように目を見開いた。
「私、今シーズンもうかかっているんですよ、インフルB型に。だからウイルスの種類が同じならそこまで気にする必要はないんです」
男性はニコニコしながらそう言った。
それはそうかもしれない。
だけど同じインフルB型でも、なんていうだろう、違う株なら何度でも罹患するのではなかっただろうか?
この人はいい人みたいだけれども、用心が少し甘いと思う。
だから、気を遣ってくれているのなら、その優しさを原因にして私の病気をうつしてしまうわけにも行かない。
手早く用事を済ませてしまおう。
私はそう思い、ぺこりと一度頭を下げてから、男性が右手でそっと差し出す伝票と千円札1枚を受け取った。
ブレンドコーヒーを一杯。
どこかへ向かう途中の時間調整だったのかな、とぼんやり私は考える。
レジをたたき小計ボタンを押すと、キャッシャーが開く。
しかして、そこには――――
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名