霧雨堂の女中(ウェイトレス)
すると、
「ありがとうなの」
ともう一度声が聞こえた。
私が顔を上げると、もうそこには誰のすがたもなかった。
和装の子はいなくなっていた。
空っぽになったマグカップと、それから
――私がそっとテーブルに重ねていた、置き去りの伝票一枚をそこに残したまま。
お代、貰い損ねちゃった。
私はそんなことをぼんやりとだが考えていた。
すると、マスターがそっと私の側にやってきて、囁いた。
「座敷童からはモノをもらっちゃいけない。それはあらゆるモノで、お金も当然にそこに含まれるのさ」
私はその言葉に、一度だけ頷いてから、右肘をそっと後ろにはらい『偶然そこにあった』マスターの鳩尾にそれを叩き込んだ。
マスターがぐえっという声を出した。
私はそれで、驚いたような顔を作ってから
「まあまあマスター、済みません」
ととってつけたような謝罪を口にした。
するとマスターは鳩尾を押さえたまま右手をそっと私の方に差し出した。
だから私はマスターが何か言う前に、その手を取って――
「長生き出来そうにない相ですねえ」
掌の皺を眺めると、当てずっぽうで手相を読んでみせて、そっとそれを下に降ろした。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名