霧雨堂の女中(ウェイトレス)
束の間、私とマスターの視線が交錯した。
そしてその次の瞬間、マスターが眼を丸くしたかと思うと、ぷっと吹き出して、爆笑した。
げらげらと、その笑いは私の想像を超え、私は呆気にとられた。
何がおかしかったのだろう?
私は正直、戸惑った。
『無礼だ』と怒ればいいのか、それとも他に理由があるのか。
私には全くそのマスターの爆笑の理由がつかめなかったからだ。
だから、私はちびちびとカフェラテを飲みながら、マスターの笑いの発作が収まるのを待った。
たっぷり五分ほどかけてマスターは笑いのつぼを押さえられた事実を満喫し、やがて穏やかに深くため息をついた。
「いいですよ、ええ、いいですとも。貴方は採用だ。それで、いつから働けます?」
マスターはそう言って呆気なく私を採用し、私はそれで、ここ『霧雨堂』で働くこととなった。
大学は休学届を出した。
いつか復学するつもりではあるが、今はそれがいつになるかは分からない。
マスターは私がふらりとここに立ち寄ったといういきさつだけ聞いて、これもまた呆気なくお店の二階を気前よく私に貸してくれると申し出てくれたので、私はちゃっかりそれにあやかることにした。
「いらっしゃいませ」
そして私は霧雨堂の女中(ウェイトレス)となった。
このお店にはいつも様々なお客が来るし、そう言う人たちと時には雑談をしたりもする。
そして私はそんなときこのお店が、いや、もっと言えばこの町が少し不思議な場所なのではないかという思いに捕らわれたりもするのだが、実は、それは私にとってどうでも良いことなのだ。
私はこのお店でこうして過ごすことが、実はとても心地よい。
マスターとふたりでお店を切り盛りすることが、何だか定められた運命のようにしっくりとすら来ている。
『街が人を呼ぶ』などと言うことがあるのだろうか?と思うことが時々私にはある。
でも、それがあったとして、私が呼ばれたのだとしても、私がそれを是として心地よく思う限りには、運命論とか言うのも何だか素敵な概念にすら思えたりするモノだ。
作品名:霧雨堂の女中(ウェイトレス) 作家名:匿川 名