いつもの香り
雨泉 洋悠
例えばもし、私が一人暮らしをしようなどと言おうものなら、あの子は、きっと泣いて縋って、止めてくれるような気がする。
そうであってほしい。
「ただいま……」
眼の前に広がる暗い空間に、私の言葉は溶けて消えていく。後手に閉めた木製扉の音がそこに僅かに重なり合い、共に消えていく。
続けて、先ほど閉じた扉に鍵を掛ける。思ったよりも大きな、金属質の音が背中に聞こえる。
静まり返った家の中、いつも私を迎えてくれる愛しい笑顔も声もない。
仕方ない、今日は予想外に遅くなりすぎてしまった。
少しは社会人に慣れたようなつもりでいたけれど、初めてのこんな時間までの勤務というのは、想像していた以上の疲労と、強い渇きを、私の体と心に刻みつけた。
ヒールを脱ぐのすら億劫な気分になるほどに、今日の私は全てを使い果たしている。
そのまま、体の向きを変えて崩れるようにへたり込む。
ただただ、何かが足りない感覚、重い渇望が体をこの場所に押し留める。
ああ、こんなにも辛いものだったんだ。
「うん、今日は残業になりそうだから、晩御飯は良いよ。大丈夫、ちゃんと食べているから」
受話器の向こうの母の心配そうな声。その不安を取り除くためにも、私は明るく言葉を紡ぐ。
「あ、京香いる?いたら代わって欲しいなあ……」
過保護で、私みたいな不肖の娘をいつも労ってくれる母さんには申し訳ないけど、この通話が可能な時間は短い、一番の目的をちゃんと果たさないと、今夜を乗り切れそうもない。
「お姉ちゃん、京香だよ。お仕事大丈夫?」
愛おしい声が聞こえる。一回り離れている、妹の京香。
姉妹を切望していた私に、マリア様が与えてくれた大切な宝物。
「大丈夫だよ、京香。お姉ちゃん帰るの遅くなっちゃうから、京香は良い子にしてちゃんとお休みしなさいね。お風呂もお母さんと入ってね」
家族の前では、歳相応よりもちょっとだけ幼い京香にお姉さんとしての言葉を告げる。
「うん、京香は良い子だからちゃんとお休みしてるよ。お風呂もお母さんと入るよ」
京香も、友だちが遊びに来ているいる時や学校に行ってる間は、相応に大人へと背伸びしている。
でも、家族だけの時には私に合わせてくれているのか、少し幼さと甘えを見せてくれる。
それが私の心を、いつも優しくくすぐる。
「うん、明日も朝一緒に出ようね。お休み……」
「うん、お休みなさいお姉ちゃん」
そこで、音は途切れる。少しだけ、寂しさを感じながら、携帯をテーブルに置き、私は夕食の続きを再会する。
ちょっとだけ、伸びてしまっていた。
数時間前のやり取りを思い出しながら、やっとヒールを脱ぎ捨てる。
そのまま脱ぎ散らかしておくことも出来たけれども、今日はこのお気に入りのヒールも今までで一番頑張ったわけだから、最低限の労りを見せ、しっかりと揃えた。
いつもなら、適当に脱いでも京香が揃えてくれるわけだけど。
多少は軽くなったけれども、やはりいつもよりも重い両足を引き摺りながら、玄関前の階段を一段一段しっかりと上がっていく。
僅かに気の軋む音が、暗闇の中で響く。
部屋のドアを開けて、そのままベッドに倒れ込んだ。
このまま寝てしまおうかなと思いながら、どうしようもない体と心の渇きに暗い淵に、落とされていきそうになる。
ああ、明日の寝覚めが最悪になりそうだ。
「お姉ちゃん?」
今は聞こえないはずの、京香の声が聞こえる。ああ、もう夢の中ってやつかな?
「お姉ちゃん、お帰りなさい。もう寝ちゃった?」
今度ははっきりと聞こえた。どうやら夢じゃないようだ。私は声のした方、部屋のドアの方を振り返る。
長い髪を月明かりに揺らして、お気に入りの黄色の花柄のパジャマを着て、私が半分冗談で昔お土産に買ってきたオレンジ色の、耳付きのたこのぬいぐるみを大事そうに抱えて、眠そうな顔した京香がそこには立っていた。
私は、夢見心地にもその姿に潤いを注がれることで、何とか意識が暗い底に引き込まれるのを繋ぎ止めた。
私は精一杯の静かな自分を取り戻して、いつもの顔を京香に向ける。
「京香…ただいま。ごめんね、起こしちゃった?」
京香は、ちょっと申し訳無さそうな顔になる。
「ううん、違うの……。えっと、お姉ちゃんとの約束破っちゃったの……ごめんなさい」
そう言って、その小さな体を更に縮こませた。
私はそんな京香の言葉と、仕草に、どうにも堪らなくなってしまった。
「京香、おいで……」
そう言って、ベッドに身を起こして、いつも通りの顔のまま手招きする。
京香は、解りやすく見る見る内に顔を綻ばせながら近づいてくる。
「ぎゅーっ」
京香が私の開いた両手におさまってくる。
いつもの匂いが漂ってくる。
ああ、今日の私に最後の最後で、渇きを癒す無二のものが与えられた。
「ぎゅーっ」
そのまま、京香を抱きかかえて布団に潜り込んだ。
「お姉ちゃん、お着替えまだだよ」
京香の冷静かつ、的確なツッコミが入る。
「いいの、今日はこのままで京香とお休みするの」
京香のいつもの香りを撫でながら、私は早くも再び誘われていった。
今度は暖かな光の指す、その淵へ。
「京香、明日はどっか遊びに行こうか。朝、一緒のお風呂入ろうね。一緒に朝ごはん食べて二人でお出かけしようね……」
最後の京香の言葉が、いつもの香りといつもの光の中で遠く響いた。
「うん、一日お姉ちゃんと一緒にいたい」
終
BGM
ねぇ/Perfume