ルチアーノ
癌が胃と肺に広がっており、体力的にも手術は不可能だという。
「延命措置として、投薬を行うことは出来ますが……」医師の提案を、彼は断った。死に抗う姿は、時として酷く醜いものに感じるのである。
知らせを受けた妻が、涙を流す事はなかった。いずれ失う温もりをその胸にとどめておくため、ただ彼を抱きしめた。
夕刻、安楽椅子に座ったレオポルドが日課の読書をしていると、愛猫のルチアーノが膝へ乗った。去年の結婚50周年の祝いに、息子夫婦が贈ったソーマロである。
普段の気配との微妙な違いを感じ取ったのか、ルチアーノはしばらくの間、レオポルドの蒼い目をじっと見つめた後、ざらついた舌で手の甲を舐めた。
レオポルドの病状は日を追うごとに顕著となり、一日のほとんどをベッドの中で過ごすようになった。
ルチアーノはその足元で丸まり、時折彼へ向けて鳴き声を発した。
「励ましてるのかしら……それとも別れに備えているのかしら」食事を運ぶ妻は言った。
「両方だろう」ルチアーノを撫でながら、レオポルドは言った。
彼が息を引き取ったのは、それから一週間後のことである。
葬儀には息子夫婦をはじめ、大学へ通っていたかつての生徒や、教授仲間などが集まった。妻の足元にはルチアーノが行儀よく座っていた。彼女が連れてきたわけではなく、出棺の際に自発的に付いてきたのである。
小雨の降る中、土がかぶせられてゆく棺を前に、ルチアーノは大きく鳴き声を上げた。その姿が完全に見えなくなったその後も、彼は数分に渡って鳴き続けた。
翌日、妻が買い物へ出かけようとした時の事。ドアを開けた瞬間に、ルチアーノが家を抜け出し、走り去っていった。慌てて追いかけたが、猫のスピードについていける筈もない。彼女は近隣の人々にその旨を伝え、知らせを待った。
夜になって、ルチアーノは自ら帰宅した。その足は土や草にまみれていた。
妻はホッと胸を撫で下ろし、知らせはいらないという旨を伝えた。
しかし次の日も、ルチアーノは一瞬の隙をついて家を抜け出した。そして夜になると、やはり足を汚して帰ってきた。それは毎日のように続いた上、ある時は愛用していたおもちゃを持ち出し、またある時はレオポルドの使っていたペンまでも持ち出すようになった。
困った妻は、近くに住む農家のマリオに頼み、彼の車に同乗して後をつける事にした。
時折見失いながらも、ひたすら駆けるルチアーノを、追い越さぬように車は走った。妻はふと、その道筋に覚えがあることに気付いた。
ルチアーノは広い野原へ入り込み、その一角で座り込んだ。妻とマリオは車を降り、そっと近づいていった。
そこはレオポルドの眠る墓だった。墓標の上には、持ち出した品の数々が雑然と置かれていた。
「こりゃあ驚いた」マリオは言った。「よっぽどご主人を愛してたんだな」
その慈しみ溢れる光景に、妻は涙を流した。気配に気付いたルチアーノは、振り返って二人の存在を確認すると、妻の足元へすり寄った。
それからというもの、妻は墓参りを毎日の日課とし、一人の老婆と一匹の猫が並んで歩くその光景は、町の名物となった。
参考:イタリア紙コリエレ・フィオレンティーノ
ヴェネト州モンタニャーナでのエピソード