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舌打ち

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日曜日の午後七時過ぎ、花冷えを報じる明日の天気予報を聴きおえた篠田透は、夕食を買うために目黒区のマンションの12階にある自宅を出て、下りのエレベータに乗った。エレベータが4階で停止しドアが開くと、黒い大きなかたまりが飛び込んできて、はげしく篠田の体にぶつかってきた。
 はじき飛ばされた篠田は、奥の壁に背中をしたたか打ちつけた。黒いかたまりは、篠田に対して謝罪ひとつせず、そのかわりに激しい舌打ちをし、そのまま入り口付近に陣取ると、親指でせわしなく「閉」のボタンを連打した。黒いかたまりは、漆黒のコートに身を包んだ大柄の男だった。
 降りていくエレベータの中で、篠田は背中の痛みに耐えながら激しく憤ったが、男が大柄な上にその挙動が獰猛だったので、それを表に出すことなく黙りこんだ。
 エレベータが1階に着く直前に、黒い男は、今度は「開」のボタンを親指で連打した。男の焦りをたしなめるかのようにドアがゆっくり開くと、それが開ききらないうちに外に出ようとした男は、ドアに肩をぶつけた。大きな音がたち、エレベータが横揺れした。その衝撃と痛みからだろうか、男は一瞬立ち止まったが、すぐに肩をおさえながら駆けだした。
 篠田は男に続いてエレベータの外にでた。エントランスを走り抜け歩道を走っていく黒い男の背中をながめながら「なんだ、あのやろう」と彼は忌々しげにつぶやいた。背中には、まだ痛みがうずいていた。

 翌日の昼休み、篠田は、同期入社の高梨と会社ちかくの中華料理店にいた。高梨は巨体に似合わず茫洋とした性格で、篠田とは妙にウマが合い、入社以来ふたりは何かとつるんで行動をしてきた。
 高梨が注文した天津丼はすぐに出てきたが、篠田が注文した日替わり定食は時間がかかっており、彼が手持ち無沙汰を感じているところに、頭上のテレビから昼のニュースが流れてきた。若い男性アナウンサーの落ち着いた声だった。
「目黒区のマンションの4階の一室で、32歳の女性会社員の刺殺体が発見されました。今日の午前9時ごろ、近くに住む女性の58歳の母親が、昨夜から女性と連絡がとれないのを不審に思いマンションを訪れ合い鍵で部屋の中に入ったところ、血だらけになった女性がベッドで仰向けに倒れているのを発見しました。母親は、警察に通報し、駆けつけた警察と救急隊員が女性の死亡を確認しました。被害者の女性は会社員のアイダミヨコさん32歳です。警察は、殺人事件と見て、現在アイダさんの交友関係を調べています」
 テレビに映し出されたマンションの画像は、篠田のマンションだった。彼は驚いた。もっとも、テレビに映し出された画像には、奇妙なよそよそしさがあり、彼のが自分のマンションであることを飲み込むには、すこしの間が必要だったのだが。
 彼はテレビに釘づけになったが、事件に関する報道はそれきりで、ニュースはスポーツコーナーに移り、アナウンサーの表情がそれまでの神妙なものから、とたんに能天気な笑みをたたえたものになったとき、「さっきのあれ、おれのマンションだよ」と篠田がつぶやいた。箸の動きが一瞬止まった後、高梨は「そうなんだ。気味が悪いな」と天津丼から顔を上げずに言った。そのあと「ていうか、まさかおまえが犯人じゃないだろうなぁ?」と篠田に顔を向けながらおどけた口調で言った。

 それから数日間、篠田はあの晩のできごとを繰り返し思い出していた。
 ニュースによると、女性の部屋は4階だという。黒い男がエレベータに乗り込んできたのも確かに4階だった。まさにあの黒い男が犯人ではないのか、彼はそう考えた。そう考えれば、あの不自然な慌てようも合点がいく。「もしそうならば、自分は犯人の目撃者ということになる。しかし、自分は目撃者を名乗れるほどあの男を観察したわけではない。『大柄で、黒いコートを着ていた』そんなことしか覚えていないのだ。自分は警察に名乗り出るべきだろうか、このまま黙っているべきだろうか・・・」
 逡巡するうちに、篠田はだんだん憂鬱になってきた。面倒なことをしょい込まされたものだ、と思った。いかにも沈鬱そうな表情を浮かべていたのだろう、それから数日間は、何人かの人に「何か具合でもわるいのか」と問われた。

「おい、例の事件、犯人がつかまったらしいぞ」
 天津麺をすする手をとめて高梨が篠田にしゃべりかけてきたのは、事件をテレビで知った同じ中華料理店だった。あれから十日あまりが過ぎていた。高梨の言葉に、篠田は弾かれたように後ろを振り返った。
 男性アナウンサーによると、容疑者は42歳の被害者の元交際相手の男性で、結婚紹介業者の仲介で知り合ったが、交際四ヶ月後に女性の方から別れを切り出されたのを逆恨みして犯行に及んだ、ということだった。頭から上着をかぶせられ、左右の係官に促されワゴン車に乗り込もうとしている男は、消え入るほどに小柄な体格だった。
「あの『黒い男』じゃない」篠田は心の中でつぶやいた。
 報道を聞けば、容疑者は犯行を否認しているという。
「犯行を否認だなんて往生際が悪いよなあ。おれ、冤罪っていうのをあまり信じないんだよね。だって、疑いをかけられるってことは、それなりに怪しいからだろ。火のないところに煙は立たずっていうじゃんか」
 高梨の言葉が遠くで響くのを感じながら、篠田は、胸の中がこれまで感じたことがない重苦しさで締め上げられていくのを感じていた。

 その夜、篠田は早々に仕事を切り上げて、駆けるように自宅に戻った。玄関で靴を脱ぎ捨てると、ウォークイン・クローゼットに大きな足音を立てて向かった。彼は、あの夜、黒い男とぶつかったときに自分が着ていたエンジ色のパーカーを乱暴な手つきで探し、それを見つけると、丹念におもてうらを眺め回した。
 果たして、それはあった。
 それはパーカーの真ん中に、手のひらぐらいの広さで赤黒く染み着いていた。篠田は、このシミが黒い男が犯行時に被害者から浴びた返り血であり、あの夜は血の赤がエンジ色にまぎれて、まだよく判らなかったのだったと考えた。
 この血液が被害者のものと検証されれば、犯人はあの「黒い男」だという証拠になる。それは、今拘束されている小柄な男の嫌疑を晴らすことでもある。
 篠田は意を決し、パーカーをたたんで百貨店の紙袋にいれると、再び玄関を出て、下りのエレベータに乗った。彼はこのパーカーを駅前にある派出所へ持ち込み、いっさいを警察にしゃべることにした。

 翌日の昼すぎ、一人で味噌ラーメンをすすっていた高梨の頭上から、昼のニュースを読み上げる男性アナウンサーの声が響いてきた。
作品名:舌打ち 作家名:DeerHunter