Be smile ――ある平和主義者の記録――
名前: TAKE
ライリー・バトラーはアイルランド系移民であり、マイケル・ジャクソンのバックで踊った経験を持つ一流のダンサーであり、パントマイムの技術に長けたパフォーマーでもあった。
彼が世間の注目を集め、新作ウォークマンのイメージキャラクターとしてマンハッタンに看板が掛けられた頃、アメリカは深刻な兵士不足に悩まされていた。中東との政情不安が続く中でこの事態を打破すべく、政府は移民からも入隊志願者を募った。
平和主義者を公言するライリーが陸軍に入隊した時、国内外問わず騒動が起こった。彼の勇気を称える者もいたが、才能と命を捨てるなと引き留める者が大半だった。彼の家族は、移住すべきじゃなかったと心底嘆いた。
しかしライリーは彼らに向かって一言だけ残し、中東の戦地へと赴いた。
「僕は平和というものを実現したくて志願したんだ。信じてくれていれば、無事に帰ってくるよ」
パキスタンでは、タリバンを政権から排除して10年近く経っても戦争が続いていた。
ライリーは大型のマシンガンを手にしてその地を歩きながら、様々な疑問に答えを見出そうとしていた。何故元凶を絶った筈なのに争いが続くのか、何故自分は今人を殺そうとしているのか。そして何故、ここでは人々の笑顔を見る事が出来ないのか。
ある時、爆撃により破壊された住居の片隅で、一人の少女が生き残っていた。依然空軍によって爆弾が投下されている真っ只中で、ライリーは少女を助け出そうと手を差し伸べたが、少女は怯えて動こうとはしなかった。
その時彼は、彼女の前でパントマイムを始めた。見えない壁があり、少女に近付く事が出来ない。助走を付けてぶち破ろうとしても壁にぶつかり、頬がベッタリと貼りつく演技をする。すると少女は自ら腕を伸ばし、本当に壁があるのか確かめようとした。手は難なく空間を通過し、ライリーの迷彩服に触れた。その時、彼女は笑顔を見せた。
これこそがライリーの求めていたものだった。彼は少女を抱き上げ、爆心地から離れると、難民キャンプの責任者にその身柄を託した。
言葉も分からず、次々と命が消えてゆく絶望的な状況下で、自分は一瞬でも相手の心に平和をもたらし、笑顔を生み出す事が出来る。
自分のすべき行動に確信を持ったライリーは、武器を捨てた。体一つで爆撃地点へ向かうと、取り残された難民を持ち前の身体技術で笑わせて緊張を解き、救出していった。
敵兵を殺さず、敵国の民間人を救ってばかりいる彼に対する評価は低かった。あまりに非現実的なその行動は偽善的だと哂われ、戦争に参加出来ない臆病者だと批判され、神にでもなったつもりかと罵る者もいた。またアメリカで彼の帰りを待つファンも少なくなり、マンハッタンの看板は取り外された。
そんな中でも彼を支持したのは、他でもない彼に命を救われた民間人と、彼らを家族に持つパキスタン兵士だ。いつしかライリーの名は敵国軍の中で広まり、彼に銃を向ける者が減少していった。
人々は彼を〝アーミー・ピエロ“と呼んだ。ライリーは司令部に無許可でストリートパフォーマンスを行った。自らの力で動こうと、体に繋がれた糸を切る操り人形を表現したパントマイム、手作りの中国駒“ディアボロ”を使った爽快なダンス、その場で調達したものを使うちょっとしたマジック……それらは極限状態の中に在る人々に力を与えた。
その為、敵国を応援するかのようなライリーの行動に対するアメリカの非難も激化した。強制送還を要求するデモが起こり、専属エージェントや協賛企業は、彼との契約を破棄した。
それでもライリーはパフォーマンスを続けた。
「誰にでも、笑う権利がある。笑いたくても笑えない人々の為に僕はいるんだ」それが継続の理由であり、彼の信念だった。今は小さな中東の国一つだけだが、いつか世界中が笑うようになれば、戦争は無くなる。ライリーは本気でそう信じていた。
やがてライリーを賛同する声が、アメリカ国民の中にも表れ始めた。不屈の精神というのは、いつだって彼らの心をくすぐるものだ。彼が戦地へ旅立ってから3年経ち、ディスカバリー・チャンネルが彼をダンサーではなくコメディアン“アーミー・ピエロ”として、その姿を追ったドキュメンタリーを放送し、そこから彼に憧れを持ち、ダンスやマジックに目覚める世代も現れた。
しかしそんな矢先、悲劇が起きた。
仲間からの支持も得て、物事が順調に回り始めたライリーの足元で、カチリと音がした。地雷を踏んだのだ。
直後に爆発音が轟き、ライリーは右足を失った。
戦闘もパフォーマンスも不可能となった彼は、治療後アメリカへ送還された。
約4年振りにメディアへ顔を出した彼に対して、国民は複雑な面持ちだった。生還を喜ぶべきなのか、彼のダンス生命が断たれた事を嘆くべきなのか、相反する出来事と感情が渦巻いていたのだ。
「ただいま」ライリーは言った。その顔からは微かな悲しみも窺えたが、彼は笑顔でインタビューに応じていた。
怪我の事について訊かれると、彼はこう答えた。「何があっても笑って解決するさ。だって、僕はアーミー・ピエロだからね。演技を失敗しても、人々の悲しみを取り込んで、自分が笑う事で観客を楽しませるのが、ピエロの役目だ」
これからどうするのかと訊かれると、彼はパフォーマンスを続けると言った。「僕が諦めの悪い男だっていうのは、とっくに承知の事だろう?」
足のハンディキャップを背負っているのに、復帰など出来るわけがない。誰しもそう思った。
しかし彼は諦めなかった。
日本に世界トップレベルを誇る義肢の製作会社があるという情報を得ていた彼は、早速義足の製作を依頼した。型取りをして、用途に合わせたモデル違いの骨組みを3本作る。プライベート用、ダンス用、アクロバット用だ。
リハビリはライリー曰く「地雷を踏んだ時より辛い」程だったそうだが、医師の予想よりも遥かに短期間で義足を使いこなした。
完成した右足は、どれも一流の出来だった。プライベート用のものなどは、左足と比べても見分けが付かない程だ。どんな動きにも対応し、何より軽い。マラソン選手がピッタリの靴を見つけた時のような気分だったという。
10ヶ月後、ライリーは公の場でアクロバットを披露した。とても義足で動いているとは思えない俊敏な動きを見せ、宙返りまでこなしたのだ。
復活祭の日に、ライリー・バトラーが戻ってきた。
“He is back!”ニューヨーク・タイムズの一面にその模様が掲載され、彼は再び時の人となった。その際、彼はリハビリに付き添っていたナースと恋愛関係になり、少し前に婚約した事を明かした。そんなところが、彼のコメディアンたる一面だと言えよう。
そして、彼は再び旅立った。やはり引き留める者がいたが、戦地でのパフォーマンスは彼のライフワークとなっていた。新婚生活は僅か2ヶ月。そんな彼の行動する意味を理解し、離れていても支える気持ちを持っていてくれる相手でなければ、結婚に踏み切る事は無かっただろう。
ライリー・バトラーはアイルランド系移民であり、マイケル・ジャクソンのバックで踊った経験を持つ一流のダンサーであり、パントマイムの技術に長けたパフォーマーでもあった。
彼が世間の注目を集め、新作ウォークマンのイメージキャラクターとしてマンハッタンに看板が掛けられた頃、アメリカは深刻な兵士不足に悩まされていた。中東との政情不安が続く中でこの事態を打破すべく、政府は移民からも入隊志願者を募った。
平和主義者を公言するライリーが陸軍に入隊した時、国内外問わず騒動が起こった。彼の勇気を称える者もいたが、才能と命を捨てるなと引き留める者が大半だった。彼の家族は、移住すべきじゃなかったと心底嘆いた。
しかしライリーは彼らに向かって一言だけ残し、中東の戦地へと赴いた。
「僕は平和というものを実現したくて志願したんだ。信じてくれていれば、無事に帰ってくるよ」
パキスタンでは、タリバンを政権から排除して10年近く経っても戦争が続いていた。
ライリーは大型のマシンガンを手にしてその地を歩きながら、様々な疑問に答えを見出そうとしていた。何故元凶を絶った筈なのに争いが続くのか、何故自分は今人を殺そうとしているのか。そして何故、ここでは人々の笑顔を見る事が出来ないのか。
ある時、爆撃により破壊された住居の片隅で、一人の少女が生き残っていた。依然空軍によって爆弾が投下されている真っ只中で、ライリーは少女を助け出そうと手を差し伸べたが、少女は怯えて動こうとはしなかった。
その時彼は、彼女の前でパントマイムを始めた。見えない壁があり、少女に近付く事が出来ない。助走を付けてぶち破ろうとしても壁にぶつかり、頬がベッタリと貼りつく演技をする。すると少女は自ら腕を伸ばし、本当に壁があるのか確かめようとした。手は難なく空間を通過し、ライリーの迷彩服に触れた。その時、彼女は笑顔を見せた。
これこそがライリーの求めていたものだった。彼は少女を抱き上げ、爆心地から離れると、難民キャンプの責任者にその身柄を託した。
言葉も分からず、次々と命が消えてゆく絶望的な状況下で、自分は一瞬でも相手の心に平和をもたらし、笑顔を生み出す事が出来る。
自分のすべき行動に確信を持ったライリーは、武器を捨てた。体一つで爆撃地点へ向かうと、取り残された難民を持ち前の身体技術で笑わせて緊張を解き、救出していった。
敵兵を殺さず、敵国の民間人を救ってばかりいる彼に対する評価は低かった。あまりに非現実的なその行動は偽善的だと哂われ、戦争に参加出来ない臆病者だと批判され、神にでもなったつもりかと罵る者もいた。またアメリカで彼の帰りを待つファンも少なくなり、マンハッタンの看板は取り外された。
そんな中でも彼を支持したのは、他でもない彼に命を救われた民間人と、彼らを家族に持つパキスタン兵士だ。いつしかライリーの名は敵国軍の中で広まり、彼に銃を向ける者が減少していった。
人々は彼を〝アーミー・ピエロ“と呼んだ。ライリーは司令部に無許可でストリートパフォーマンスを行った。自らの力で動こうと、体に繋がれた糸を切る操り人形を表現したパントマイム、手作りの中国駒“ディアボロ”を使った爽快なダンス、その場で調達したものを使うちょっとしたマジック……それらは極限状態の中に在る人々に力を与えた。
その為、敵国を応援するかのようなライリーの行動に対するアメリカの非難も激化した。強制送還を要求するデモが起こり、専属エージェントや協賛企業は、彼との契約を破棄した。
それでもライリーはパフォーマンスを続けた。
「誰にでも、笑う権利がある。笑いたくても笑えない人々の為に僕はいるんだ」それが継続の理由であり、彼の信念だった。今は小さな中東の国一つだけだが、いつか世界中が笑うようになれば、戦争は無くなる。ライリーは本気でそう信じていた。
やがてライリーを賛同する声が、アメリカ国民の中にも表れ始めた。不屈の精神というのは、いつだって彼らの心をくすぐるものだ。彼が戦地へ旅立ってから3年経ち、ディスカバリー・チャンネルが彼をダンサーではなくコメディアン“アーミー・ピエロ”として、その姿を追ったドキュメンタリーを放送し、そこから彼に憧れを持ち、ダンスやマジックに目覚める世代も現れた。
しかしそんな矢先、悲劇が起きた。
仲間からの支持も得て、物事が順調に回り始めたライリーの足元で、カチリと音がした。地雷を踏んだのだ。
直後に爆発音が轟き、ライリーは右足を失った。
戦闘もパフォーマンスも不可能となった彼は、治療後アメリカへ送還された。
約4年振りにメディアへ顔を出した彼に対して、国民は複雑な面持ちだった。生還を喜ぶべきなのか、彼のダンス生命が断たれた事を嘆くべきなのか、相反する出来事と感情が渦巻いていたのだ。
「ただいま」ライリーは言った。その顔からは微かな悲しみも窺えたが、彼は笑顔でインタビューに応じていた。
怪我の事について訊かれると、彼はこう答えた。「何があっても笑って解決するさ。だって、僕はアーミー・ピエロだからね。演技を失敗しても、人々の悲しみを取り込んで、自分が笑う事で観客を楽しませるのが、ピエロの役目だ」
これからどうするのかと訊かれると、彼はパフォーマンスを続けると言った。「僕が諦めの悪い男だっていうのは、とっくに承知の事だろう?」
足のハンディキャップを背負っているのに、復帰など出来るわけがない。誰しもそう思った。
しかし彼は諦めなかった。
日本に世界トップレベルを誇る義肢の製作会社があるという情報を得ていた彼は、早速義足の製作を依頼した。型取りをして、用途に合わせたモデル違いの骨組みを3本作る。プライベート用、ダンス用、アクロバット用だ。
リハビリはライリー曰く「地雷を踏んだ時より辛い」程だったそうだが、医師の予想よりも遥かに短期間で義足を使いこなした。
完成した右足は、どれも一流の出来だった。プライベート用のものなどは、左足と比べても見分けが付かない程だ。どんな動きにも対応し、何より軽い。マラソン選手がピッタリの靴を見つけた時のような気分だったという。
10ヶ月後、ライリーは公の場でアクロバットを披露した。とても義足で動いているとは思えない俊敏な動きを見せ、宙返りまでこなしたのだ。
復活祭の日に、ライリー・バトラーが戻ってきた。
“He is back!”ニューヨーク・タイムズの一面にその模様が掲載され、彼は再び時の人となった。その際、彼はリハビリに付き添っていたナースと恋愛関係になり、少し前に婚約した事を明かした。そんなところが、彼のコメディアンたる一面だと言えよう。
そして、彼は再び旅立った。やはり引き留める者がいたが、戦地でのパフォーマンスは彼のライフワークとなっていた。新婚生活は僅か2ヶ月。そんな彼の行動する意味を理解し、離れていても支える気持ちを持っていてくれる相手でなければ、結婚に踏み切る事は無かっただろう。
作品名:Be smile ――ある平和主義者の記録―― 作家名:TAKE