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水木 誠治
水木 誠治
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理由なき殺人

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1.やはり人は好きになれない



 やはり人は好きになれない。
 西日で赤く照らされた自動車の背が、次々と過ぎ去っていく光景を見下ろしながら、翔子は今更のようにそう思った。
 カフェレストランの二階の窓際。翔子は四人用のテーブルをたったひとりで占有し、ウィンドウから覗く景色をぼうと眺めていた。
 人間ほど裏表のある動物はいない。人間社会に引きずり込まれた犬や猫でさえも、自分の感情には素直だ。仮面をつけて生きていかなければならないのは、数多くいる動物の中でもたった人間だけなのだ。
 溜息をつき、冷めきったコーヒーを口に運ぶ。久々に飲んだカフェインだったが、いつもにも増してまずい。顔をしかめ、背もたれに身を預けると、前方の席から遠慮のない馬鹿でかい会話が聞こえてきた。翔子はさらに顔をしかめて、その会話を聞くともなしに聞いていた。
「なあ、アレ聞いたか?」
「ちょっとぉ、アレじゃわかんないでしょー」
 声と口調から判断するかぎり、頭の悪い青年と尻の軽そうな女のようだ。翔子は席を立とうとしたが、男の次の言葉で浮かせていた腰をソファに戻した。
「なんとか精神病院から、やばい患者が逃げ出したって噂だよ。ほら、数年前に連続した無差別殺人があっただろ?」
「知らなーい。あたし、ニュースとか新聞とか見ないし」
「まあ、俺も詳しくは知らないけど、そんな事件があったんだよ。で、その犯人、裁判で精神喪失だとかなんとか判断されて無罪。ま、当然そのあと、精神病院に入れられたわけだ。それで、今回の噂だよ」
「まさか、その犯人が病院から逃げ出した患者、って言うんじゃないでしょうね」
「そのとおり」
「ばっかばかしぃ。そんなの作り話に決まってんじゃん」
「それがさ、この話、かなり信用できる筋から……」
 こんな下らない会話のなかにも、下心が渦巻いているに違いない。そう思った途端、翔子はひどい頭痛と耳鳴りに見舞われた。望みもしないチカラが働く前兆だ。
 男と女の会話が小さく遠のき、再び大きくはっきりと聞こえてきた。
『どうして、この男、こんなつまんない話しかしないのかしら』
『このあと、どうやってホテルに連れ込もうか……。とりあえず、このまま時間を稼いで、もっと暗くなってから……』
 脳に直接響いてくる声に耐えられなくなり、翔子は両目を閉じた。視界を遮断し、色のない世界に逃避する。しかし、その会話がやむことはない。
『この前、加奈子に紹介してもらった、あの男に電話してみようかな。このままじゃ、つまらなそうだし』
『やべぇな。つまらなそうな顔してんじゃん。とりあえず、ここ、出るか』
「――申し訳ございません!」
 その正常な声で翔子は我に返った。
 手元を見ると、琥珀色の液体がだらしなく尾を引き、テーブルの端から垂れ落ちている。
 傍に立つウェイトレスが頭を何度も下げながら、謝意の口上を述べた。
「申し訳ございません。もちろん、お代のほうは結構ですので。――御洋服のほうは汚れていませんでしょうか?」
 ウェイトレスに促され、確認してみる。右袖のところに焦げ茶色の班点がついていた。カップが倒れた際、コーヒーが跳ねたらしい。
『あ。やっぱり跳ねてたか。ったく、なんてついてないの。面倒くさいなあ、もう!』
 しかし、彼女が実際口にする台詞は全くの正反対だ。
「申し訳ございません。どうぞ、こちらの方へいらしてください。クリーニング――」
「結構です」
 翔子は苛立ったように言い放ち、席を立った。
 自動ドアを抜け、下りの階段を音を立てて駆け下りる。車のキーをハンドバッグの中から探り出しながら、心の中でもう一度毒づいた。
 やはり人は好きになれない。


作品名:理由なき殺人 作家名:水木 誠治