ある犬のお話
夏色のワンピースに麦わら帽子
そしていつものように僕の前で立ち止まる
ガラスが曇るほどに顔を近づけて「ごめんね、まだお金が貯まらないの」と悲しそうな顔でつぶやく
僕には何のことか分からないけれど、友達がある日突然いなくなっていく事に関係しているのかもしれない
少し大きくなりすぎた僕の檻の前には、今あまり立ち止まる人はいない
だけど、あの人だけはまっすぐ僕の前に来て必ず話しかけてくれるんだ
あの人の隣にどこかの子供が立ち止まり、ガラスに小さな手のひらをつける。でも「この犬はちょっと大きいな。これくらいになると買い手がつかないんじゃないか?」と父親がすぐに手を引いていく
何日か経ったある日の夕方、あの人が少し遠くからこっちをみつめていた
わざと気づかないふりをしていたけど、僕のふさふさのしっぽが嬉しさに勝手に持ち上がっていくのが分かる
しばらくしてためらうように近づいて来ると、何とも言えないような悲しそうな顔で「一緒に住んでる人がね、飼っちゃダメだっていうの。驚かせようと思って今日のために頑張ってお金を貯めたのに」
そう言いながら涙を浮かべて愛おしそうにガラスを指でなぞる
なぜそんな悲しい顔をしているのか理解できなかったけれど、そのとき僕はどうしてもその涙をなめてあげたくてガラスに近づいたんだ。でも……。
「ごめんね」
そう言い残してあの人は走り去って行った。この時になってやっと(ああ、もうあの人を見ることはもう無いのかもしれない)と鈍い僕でも理解することができた
――それから何日も、何日も、あの人は来なかった
僕は、おとうさんとおかあさんの顔をよく覚えていない
すぐにもらわれていったから
でもあの人の顔だけは絶対に忘れやしなかった
隣に新しい友達が入って来ては、またすぐにどこかにもらわれていく
僕のからだは更に大きくなり、お店の人からも少し迷惑な目で見られるようになっていた
もう、僕の前で立ち止まる人はほとんどいない
ある日、「明日から遠いところに行くからね。今日は綺麗にシャンプーしようね」とお店の人に言われた
(もう一度だけ、あの人に会いたいな。その時には、めったに吠えない僕だけど、今度こそ思いっきり「今まで来てくれてありがとう」って伝えよう! たとえお店の人に叱られたってかまわないや)と思った
目をつぶると、最後に見たあの人の悲しい顔が浮かんでくる
僕を見てくれた人、僕だけをみてくれた人
移動する日の午前中のことだった
僕は懐かしいような匂いを嗅いだような気がして目をあけた
服装はジーパンにTシャツと変わっていたけれど
(あの人だ!!)すぐに分かった
でも、あれ……今日あの人は笑っているぞ
そして、いつもしていたようにガラスに鼻を近づけてくる
「まにあったよ! ごめんね」
そして、ついに僕は、あの人のいい匂いのする腕に初めて抱きあげられた。首からは懐かしいようなひなたの香りがする
これからはいつでもあの人の涙をなめてあげられるんだ
みんな僕たちを見ながら微笑んでいる
お店の人も、家族連れも、そして仲間たちも
そりゃそうだよ
僕はもう、後ろ足で立つとあの人の腰の高さよりも大きいんだもの
「この子がどうしても忘れられなくて、彼と喧嘩して別れちゃいました」
照れくさそうに店員さんと話すあの人の息が、耳の毛に触れて少しくすぐったかったけれど、抱き上げられている僕はとても幸せな気持ちでいっぱいだった
あの人の家に入ると、あご髭を生やした若い男の人がしょんぼりと肩を落として待っていた
「なあ、俺がわるかった。おわびにその犬の名前考えてきたんだ。ゴンスケでどうかな?」
「ダメよ。このコはペロ。すぐペロペロするからね」
髭の男の人はこわごわ僕の頭をなでたあと、あの人を愛おしそうにぎゅっと抱きしめた
それから長い月日が経ち、僕もおじいさんになってしまった
目は良く見えないし、もう満足に立つことさえできない
あご髭の人とあの人の、笑顔で写っている結婚写真もぼやけて見えないんだ
この十数年であの人の涙を何度となくすくいとったなあ
時にはあご髭の人の涙も
ある日のことだった
そんなことを考えながら元気なく丸まっている僕の鼻面に、あの人は悲しそうな顔を近づけてくる
なぜ今日はそんな顔をしているのだろう。そうか、ひょっとしたら今日僕はもう……
今夜のあの人の涙は、今まででいちばん、いちばん多かった。あとから、あとから、泉のように溢れ出している
その隣で、あご髭の人も声を押し殺して目を腫らしている
(あれをすくいとるのは、いつだって僕の役目なんだ)
立ち上がろうともがいたけれど、前足が空を切るだけだった
「いいのよ、もう立たなくてもいいの」
首を振りながら僕の身体を優しく撫でる。そしていつもしているように僕のほっぺたをにょーんと伸ばす
「もう、そんな顔してえ」
まったく、自分がさせているくせにね
でも、今日だけはなぜか無言のまま、僕の目を見つめているだけだった
ほっぺたを伸ばすその手は細かく震えていて、おまけにあの人の顔は、笑いながら泣いているように見えた
(今までこんな顔みたことないや。だれか、力をください。最後の仕事をさせてください)
そう願った時、なぜか全身に力がみなぎってきた。僕は全ての爪に最後の力を込めて立ち上がる。そして、涙でぐしゃぐしゃになったふたりのその顔を順番にペロっとなめてゆく
それは……いつものように塩辛かったけれど、その涙は僕たちが出会った夏の香りがした
どくん!
その時を待っていたかのように、僕の心臓は最後の脈をうつ
足の力が抜けて、したたかに床にお腹をぶつけたけれど、もう痛くはなかった
この人たちと歩んできた楽しかった思い出が頭の中を駆け抜ける
やがて、大切なふたりに抱きしめられながら、ゆっくりと僕の魂は天国にのぼって行った
白い光に包まれた僕の心はいま、幸せと感謝で満たされている
(ありがとう。おとうさん、おかあさん。またどこかで、僕を見つけてね)