夜と夜と朝と
しかし、彼女には好きな男がいるらしかった。かなり前だが、そうこぼしていたのを覚えている。彼女が惚れる男だ、ひどい男ではないだろう。中学生のように恋に落ちた僕は、中学生のように歯を食いしばって彼女を見守ろうと思った。大の大人がそうしたくなるくらいには、どうしようもない恋心だった。
だが直後発せられたこの一言によって、この思いは奪い取られた。
「ねえ、私はあなたのことも大好きよ」
透明な底なし沼に、はまったような気分だった。
酔った勢いだとか寂しさを紛らわせるためだとか、そういう関係にはなりたくなかった。だが、端からみれば僕らのその後の関係はまさにそれだっただろう。
こんな僕でも最初は、これであの子との距離は縮まるのではないかと淡い期待をしていたのだ。……結果はむしろ逆だった。
彼女と会う度に、彼女の鳴らす足音も、白い息も、乱れた髪も濡れた瞳も脈打つ心臓も、どれもこれも僕じゃない誰かのために存在しているのだと、強く強く感じた。好意を伝えれば「私もよ」という答えが返ってきたが、その目は僕の目よりもずっと奥を見つめているようだった。そんなことがある度に僕は彼女の目を塞ぎ、口を塞いだ。
そう、彼女は、僕の使う「好き」と自分の使う「好き」の違いに気付いていないのだ。だから、僕が悲しい顔をするといつも彼女は不思議そうに僕の頬を撫でた。どうか気付かないでくれ、と切に願った。僕の胸がどれほど痛んでもかまわないから、僕が抱えているような気持ちを自分の中に見つけないでほしい、と。
僕がそうやっきになっても、彼女はぼくの手の内からすり抜けていってしまう。彼女が僕と過ごしている時間は、その後出会う誰かとの時間のための前座でしかない。そのことを僕は知っているからこそ、固く握りしめることはできなかった。できるのは、ただ僕の方を見てくれと彼女と逢瀬を重ねることだけだ。
僕が彼女を傷つけてしまえば、彼女の人生の本編に支障がでてしまうかもしれない。そんなことは恐ろしくてする気が起きなかった。考えてみれば、彼女が朝起きる前に姿を消すという僕の習慣は、「酔った勢い」に似せたい僕の臆病さがなしたものだったのかもしれない。いつも僕は、朝に追われるようにして帰路についていた。
***
「ねえ」
いつものように寝ている彼女の前から去ろうとしたときに、背後から声を掛けられた。そのままドアノブに手を掛けようとしたら、背中をこつんと叩かれた。
「ねえ!」
振り返ると、下着の上にセーターだけ着た彼女が立っていた。綺麗だ、それ以外はなにも思わないようにした。
「どうしたの? まだ寝てていいのに」
彼女は少し膨れて腰に手を当てた。
「私だって、あなたほどじゃないにしても、朝に弱いわけじゃないの。たまには朝ご飯でも作らせてよ」
彼女の物言いはいつも裏を感じさせない。今回も寝起きで機嫌が悪いだけで、「なにも言わず出ていくなんで失礼」なんて思ってはいないだろう。僕が好きなおかずを言えば今からでも振る舞ってくれそうな、そんな雰囲気だった。
「そうだね……」
ぼくは曖昧な相づちを口にして、そのまま彼女を抱きしめた。寝ぐせのついた柔らかな髪が鼻をくすぐって心地よい。
「めずらしいね」
彼女はからからと笑って僕の背中に手を回した。
「僕は朝はご飯派なんだ」
「実は私も」
「味噌汁はわかめと絹ごし豆腐」
「あなたが食べたいなら毎日だって作ってあげる」
くっ、と言葉が喉で詰まった。どうしてこうも無邪気な返答ができるのか。
「僕は君が好きだよ」
「私も、好きよ」
通じているようで実は通じていないことを、彼女は気付いていない。そのことがいつもよりずっと悔しくて、僕は今までで一番、彼女を抱く腕にぐっと力を入れた。唇を噛むと苦い味がした。
「どうしたの、めずらしい」
彼女はそこまで驚いた様子ではなかった。それが逆にありがたい。
「めずらしくはないんだ」
今度は首を傾げたのが、見なくてもわかった。
この彼女に婚約指輪をあげたら、どんな顔をするのだろう。ふとそんな考えが頭に浮かんだ。前座でもいい、真打ちがいてもいい、僕で終わらせてしまえばいい。僕の重苦しい思いや彼女の将来の運命に気付かないままで、僕と一緒に過ごしてくれないだろうか。どうか、どうか。
僕の何かを察してか、君が僕の背中を優しく叩く。カーテンの隙間からは、いつの間にか朝日が部屋を細く照らしていた。
「……君の味噌汁が飲みたいな」