ど根性で帰る
物心ついた頃から私はそうであった。
この事を人に話すと、意外にも大概共感してくれる。
その原因については、本を見るとリラックスして気が緩んで肛門も緩むからとか、紙がうんこを連想させるからとか、インクの匂いが便意をそそるとか、諸説色々ある。
何にせよ、とにかく書店に行くとうんこをしたくなる人は多いのだ。
こうした事実があるのだから、日本全国の書店は、魅力的な書籍を揃える事と同等に、いやそれ以上に、トイレにしっかりと紙が補充されているかのチェックに尽力しなければならないはずだ。
昨日午後、私が用事の帰りに寄った書店は、その極めて重要な業務を怠っていた。
まったく思い出すだけでも虫唾が走る。
書店に入るやいなや、例によってうんこがしたくなったので店内のトイレに行き、大いにうんこをし、さてケツを拭こうと思い、紙に手を伸ばすと、なんとそこには芯しかなったのだ。
「馬鹿な。
こんな事があり得るのか。
うんこマンが頻出するとわかっているのに、なぜ紙がない?
何を置いてもトイレの紙の補充を優先すべきだろう。
本はその後だ。
トイレでケツを拭けない本屋に比べたら本のない本屋の方がまだマシだ。
全くおもてなしの精神が欠落している。
ケツを落とす場だからなどという洒落では済まされぬ。
人のことを馬鹿にするのも大概にしろ。
許さん。
断固として許さん!」
書店の怠惰な仕事っぷりに私は怒りを露わにした。
しかしその数十秒後に、トイレの中でどれだけ怒りを露わにしたところで、露わになることはないという事に気づき、止むを得ず怒りを押し殺し、冷静沈着に、地に足のついた考えをすることにした。
地に足をつけた結果、トイレットペーパーの芯でケツを拭くことを決意した。
すべての責任は自分にあり。
自分のケツは自分で拭く。
高尚なる独立自尊の精神をもって、私はケツを拭いた。
しかし一拭きして、紙に着く茶色の彼を見たところ、今日の彼はしぶとく粘り強い性質で、うんこというよりはむしろうんちと言うべき奴である事がわかった。
それでも諦めず拭けるだけ拭いたが、やはり芯だけでは到底拭ききれなかった。
「もはやここまでか。
無念だ。
噛み付くすっぽんのごときうんちめ。
お前を振り払うことはもうできん。
こうなればいっそお前と共に下水道へ流されてしまおうかしら。
もはや精も根も尽き果てた。
精も根も。
根。
根性。。。
そうか、『根性』か!」
根性という言葉が心を過ぎったその刹那、私の脳内に起死回生の策が閃いた。
「やるぞ。俺はやるぞ!」
緊褌一番、心を引き締め、そして肛門を引き締め、私は立ち上がった。
肛門を引き締めたままブリーフを履き、肛門が開かぬよう細心の注意を払いつつゆっくりとジーンズを履き、そしてジーンズの上から右手でブリーフも一緒に掴み後ろに引っ張り、ここで『ど根性ガエル』の主人公であるヒロシがシャツの中の蛙ぴょん吉に引っ張られる際の海老反りの体勢に習い、肛門を前面に突き出し海老反りとなり、左手でドアを開け、そのまま疾風迅雷のごとく我が家まで走行したのだ。
我が家に着くまでに何人に海老反り走行を目撃されたかは分からぬが、もはやそんな事はどうでも良かった。
人間は本当に必死になると周囲のことを全然気にしなくなるものなのだと、この時理解した。
さて、我が家に着けばもうこっちのものである。
しかしここで油断してはいけない。
靴紐を解くとなれば、いかなる場合でも前傾姿勢とならざるを得ず、そうなるとうんちがブリーフに着くのを防ぐ事ができない。
だから私は、しっかりとブリーフとズボンを下ろしてから靴紐を解いた。
我ながら見事な処理であった。
しかしここで思いもよらぬ事件が起きた。
祖父が部屋から出てきたのだ。
可愛い孫の帰宅を迎えようと思ったのだろうか、スタスタと玄関へやって来た。
そして祖父は私を見た。
口を開けたまま3秒ほど固まり、そのまま何も言わずにリビングへと行った。
フルチンで直立する25の孫を見て、祖父は何を思ったのだろう。
海老反りを何人に見られたとてどうでも良いが、祖父に不埒な姿を見せてしまったことは残念であった。
しかし、悔やんでいても仕方がない。
グズグズしているうちに母親が帰ってきたらそれこそ大惨事である。
こうして、ついに我が家のトイレに入り、ケツを拭くことができた。
書店での放便が端を発した空前絶後の大事件もいよいよ幕を閉じる。
「愚かなる書店員らよ
貴様らの落とした青天の霹靂を、慮外千万の試練を、私は見事に乗り越えたぞ!
ふはははは!」
今度は海老反りすることもなく、もはや明鏡止水の境地でブリーフを履きジーンズを履き、紙を流し手を洗い、威風堂々とトイレのドアを開けた瞬間、書店のうんちを流すのを忘れていた事に気づいた。
やはり、人間は本当に必死であると周りが見えなくなるのだと、この時確信した。
私の落とした茶色の霹靂を、誰が受けたかは知る由もない。
是非とも善良なる市民ではなく、愚鈍なる書店員に落ち、そして自らの愚に気づき、悔い改めることを願うばかりである。