夜行譚4-春風ー
「私は、はるのり、といいます」
どこかぎこちなくそう言った後、はるのりはぺこりと頭を下げた。
辞儀というよりは、ただ頭を下げただけの仕草だったが、
それを見ていた春祝は、それでも満足そうに笑い、はるのりの頭を撫でた。
春祝の手を受けてはるのりは今度はごく自然に笑った。
桜の花がはらはらと舞い散る渡殿で笑いあう二人は、とても、幸せそうに見えた。
「ねえ、玉藻」
庭へ出て、橘花と桜花と共に花を手折るはるのりを、目を細めて見ながら、春祝は瓶子をかかげて寄越した。
こちらに視線も寄越さぬままに、私が捧げた杯をなみなみと満たして酒を注ぐ。
それをぺろりと舐めて「なんじゃ」と問えば、ようやくこちらを見て笑んだ。
「僕とあの子、そっくりだろう?」
「…確かに、見目はよう似とるわ。気持ち悪いほどじゃ」
「気持ち悪いとはひどいな」
「同じ顔が二つ並んでおるのは気味が悪いわい。しかし、似とるのは見目だけじゃの。中身は全然似ておらん」
私は、目の前でうっすらと笑みをはいた春祝の顔と、庭で花を見つめて笑むはるのりの顔とを見比べる。
同じ造作の顔が同じ笑顔を浮かべているというのに、まったく異なる笑顔。
「まこと、心の有り様というのは不思議なものよ」
しみじみと呟いて、杯を干す。
私の言葉に、春祝は笑みを少し深めた。
上機嫌のようだ。
「笑っていて良いのかえ?」
「どうして?」
「はるのりはいずれ主の代わりとなるのであろ?」
「そうだね」
「では、中身もぬしと同じでなければ困るのでは無いかえ?」
「そうだね…」
春祝は、私の杯を再び満たしながら口を開いた。
「でもね、僕はこれでいいと思ってる。はるのりにははるのりの命がある。
僕の勝手で生み出した命だけれど、僕ははるのりにも生きて貰いたい。
はるのりにも、心を持って、生きて貰いたいんだ。僕の分まで」
そう言って笑う春祝の笑顔は、桜吹雪に溶けてしまいそうなほどに儚い。
彼の命の鼓動が、春の生命の息吹に掻き消されていく音が聴こえる気さえして、
私は思わず、杯を投げ出し、春祝の腕をつかんだ。
杯は、硬い音を立てて割れた。
「ーまだ、大丈夫だよ。まだ、やることがあるからいけない」
やんわりと私の手を振り解いて、春祝は杯の割れた音を聞きつけて何事かと駆け寄るはるのりへと振り返る。
同じ顔、同じ体、同じ表情。
けれど、異なる二つの魂。
二人の桜の重ねの着物が、強い春風に煽られて大きく膨らんだ。
私の、不安と共に。
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「はるのり」
桜舞う渡殿に気だるげに座り込むはるのりの背中に声をかける。
しかし、聴こえているのかいないのか、はるのりは庭へ落とした視線をこちらへ向けようとはしない。
「はるのりや」
もう一度声をかければ、視線だけを投げて寄越した。
「おぬし、春祝に似てきたのう…」
私の言葉に、はるのりはうっすらと笑みを浮かべた。
それは、桜吹雪に溶けてしまいそうなほどに、儚い笑みだった。