夜行譚2-邂逅ー
神山をも震わせたおぞましい咆哮に何事かと駆け付けた虚空は、
そこに倒れ伏した男の姿に、思わず眉を顰めながら問うた。
男は全身血に塗れ、うつ伏せに倒れている。
到底生きているとは思えない様子だが、それでも虚空が声をかけてしまったのは、
男が身に纏った瘴気、怨嗟が、人の身で纏うには余りにも濃過ぎたためだ。
信じられない思いで男を見ていた虚空が、男の前まで来たとき、
男がうつぶせていた顔を僅かに上げ、虚空を見上げた。
「…天狗か」
血が目に入ったためであろう、真っ赤な目で虚空を見据えながら男は言った。
「おや、生きていたか」
「まもなく死ぬる。捨て置け」
他人事のように言い様、男は震える手を突っ張って仰向きに転がった。
たったそれだけの動きにゼィゼィと喉を鳴らしている。
男が動いた後の地面には、真っ赤な血の染みが出来ていた。
なるほど、確かにもう死ぬらしい。
「お主、まことにヒトか」
近づけば、魔道に落ちた天狗の身である虚空でさえ鼻を覆わずにはいられぬ程の瘴気。
ヒトの身でこれほどの瘴気を纏っていては、寿命は一日と持つまい。
しかしこの男が今死にいこうとしている理由はどうやら瘴気のせいではないらしい。
如何にもヒトらしく、全身に刻まれた刀傷のために寿命が尽きようとしているのだ。
「…人でなければ、何に見える」
男は虚空の質問に、鼻で笑って答えた。
死を目前にしてのこの態度。
虚空は、男に興味を持った。
こんなヒトには今まで出会ったことが無い。
「ふぅん…あんた、なかなか面白い奴だね
ちょっとおれと話をしないかい?」
嬉々として顔を覗き込んでくる虚空を、男は鬱陶しげに見やって言った。
「もう、死ぬると言っている。
天狗と話している暇なぞ無い」
そう言って男は目を閉じた。
耳を澄ませば確かに先ほどよりも息が細い。
「あんた、死にたいのかね」
「死にたいものか」
虚空の問いに男は唇だけを小さく動かした。
男の体に起こった変化は、それだけだったが、男が纏う瘴気が
燃えるように吹き上がり、その言葉の真意を伝えた。
「死にたくないんだな」
虚空はにやりと笑って、男を抱えると、背中の羽根をばさりと羽ばたかせ空へと舞い上がった。
「…何を」
「死にたくないんだろう?おれがあんたを生かしてやろう。
その代わり、話せるようになったらおれの話し相手になってくれよ。
あんたに、興味がある」
「…いいだろう…」
意外にも男は容易く頷いた。
途端に虚空の腕の中で男の体はぐったりと重みを増す。
男を包む瘴気も薄れた。意識を失ったのだろう。
しかし虚空はそんな男は少々乱暴に揺さぶり、起こす。
「おい、寝る前に名前を言いな」
「………はるのり………」
寝言のように呟いて男は今度こそ意識を手放した。
「はるのり、か。見かけによらず可愛い名じゃないか。
さて、どんな字を書くのかね…目を覚ましたらまずそれから聞くとしようか…」
虚空は男を抱いて楽しげに羽根を動かした。
退屈だった日々が、変わりそうな気がする。
それが良い方向にだろうが、悪い方向にだろうが、かまわない。
ただ今の退屈を紛らせることが出来るならば。
くくっと堪えきれない笑みを虚空は漏らした。
腕の中の男は、弱弱しくも確かな鼓動を、刻んでいる。