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みやこたまち
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アバンチュール×フリーマーケット ~帰省からの変奏

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1.電車を待つ男



 朝5時前の静寂と靄に包まれて、大きな鞄を脇にひとつ、口にはタバコをくわえた男が、電車を待っている。上りの電車の来るはずの方角を、単線のレールが収束する無限遠を、凝視する男は瞬きさえもしない。男はきちんと髭をあたっている。髪も乱れてはいない。服装は、仕立ての良いチャコールグレイのスリーピース。その上には、グレイのコート。プラットホームは早朝で、まだ牛乳配達さえもない。男はホームの端に立っている。そうして見つめている。考えている。

 やがて電車がやってくるであろうこの方角が、今の俺にとっての未来を指している。だが俺が電車に乗ってしまえば、今度は電車の進行方向が、俺の未来となる。未来からやってきて、未来へ向かって走る電車。次の駅、また次の駅、到着までは未来だった駅のプラッツ。 だが、そんなものは一瞬にして過去となる。通過したことに意味があるのだろうか。快速の停まらない小さな駅。過ぎ去ったことでしか存在を示しえない、哀れな駅。停車時間は、常に現在だ。そうして、ベルと共に時は流れ、またたく間に過ぎ去ってしまう。
 ああ、俺は今、回れ右をすることだってできる。鉄路に降りて、耳のちぎれんばかりに冷たいレールを枕に最期の夢を見ることさえできる。鞄を持ち上げて、改札へ向かうこともできる。ホームの自動販売機を引きずり倒し、中身を強奪することだってできるはずだ。しかし俺は、こうして静かに電車の来るのを待っている。
 ここにもうすぐ電車が来るということは、結構確かな事らしい。少なくとも、精算所から出て来ようとしない駅の職員、所々ペンキの剥げ落ちた時刻表、4月に切符切りが配っていたポケット時刻表などの、オーソライズされた確証が、俺に可能性の大きさを示唆しているのだ。よろしい、電車は来る。
 ホームにぶらさがっている万人のための時計が停まっていようとも、さらに大勢の人達のための時計が動いている限りは、そちらの時間に従って、電車は動いている。人々も活動をしている。俺が時計を持っていないとしても、そんなことにはおかまいなしに、電車はやってくる。そして俺は、そいつに乗ることができる。そのために切符を買ったのだ。切符。片道分の切符。自分だけのために買うおそらく最後の切符。これまでで、もっともしみったれた片道切符。改札のスタンプまでかすれてしまって、おまけに指にまで赤いスタンプがにじんでしまった、いまいましい切符。しかし、俺の未来は、水たまりに落っことした食パンのように貧相な一枚の切符によって守られねばならない。ビデオ屋では免許証が、病院では保険証が、役所では、戸籍謄本と住民票が、俺という存在を目に見えるものとしているように、鉄道では、切符だけが頼りだ。

 男は顔を紅潮させた。タバコはとっくにフィルターまで灰になった。おもむろに上着のポケットから緑の切符を取り出して、じっくりと眺める。さっきまで無限大の焦点を結んでいた網膜が軋む。眉間のしわ。男は、眼鏡をかけていた。切符を持っていないほうの手で、眼鏡を掛けなおす。そうして、切符を睨む。かすれたスタンプを見る。地の模様になっているマークを見る。診る。目ばかり酷使している。鼻は、男の考えや切符とは無関係の活動を展開している。耳は、体の外か、中か、判別のつかない音を鼓膜に感じている。すべてが正常な働きを遂行している。従って、男は今、目のことしか感じていない。あとは、少し寒いということを、別のどこかで感じている。通奏低音のように感じつづけている。まだ太陽さえ上っていない。牛乳配達の自転車の音。硬質な音が、靄に吸収されて、遠くに聞こえる。冷たい牛乳ビン。冷たい空気。牛乳配達の冷たい耳。軍手の下の、かさかさでしわしわの指。毛糸の帽子。黄色い牛乳箱。その後ろ姿。何も見えないけれど、そういう後ろ姿は脳に映る。それだけで充分。もうたくさん。

 遠くで赤の明滅。少し遅れて甲高い電気的な音。少し懐かしい音。遮断機の降りるときのモーターのうなり。聞こえないけれど分かる。経験で、聞こえてしまう。電車の通る度にたわむレール。見えないけれど、見えてしまう。自分はここに長く居すぎた。居すぎてしまった。遠慮のないぶち壊しのアナウンス。朝靄だろうが、夕立だろうが、雪だろうが、雹だろうが、夏だろうが、無関係なアナウンス。男は、ホームの中ほどへ移動。鞄を抱えて移動。4両編成の電車の限界を知っているから。いそいそと移動。意外とせっかち。降りる一つ前の駅になると、定期を取り出す、精算分の小銭をじゃらじゃらさせる。そういう性格。磨きあげた靴を履いていても、がっかりの性格。騒々しさがこだまする。靄も少し張り裂ける。車内もきんと張りつめた空気。客は無し。貸し切り。朝一番の電車の車内は清潔。清潔な朝、一番の客も清潔。朝日の上る前に出発だ。出発だ。