魔法使いと時間泥棒
場所はイングランドのロンドン。
黒インクを零したような空の下、ビックベンの時計塔を背に二人の男が対峙していた。
彼らが向き合っていたのは地上ではなく、空に近い場所。
時計の時刻盤とちょうど同じ高さに、浮いていた。
もしも彼らを地上から目撃したものがいたならば、驚いた事だろう。
ライトアップでくっきりと浮かび上がるビックベン――その正面に人間が浮遊していたのだから。
だが彼らに気付くものは誰一人としていなかった。
闇に紛れるロンドンを眼下に、一人の男が蠢いた。
「ここに来ると思ったぜ。英国被れのお前の事だ、最初はこの時計塔を狙うと思ったが、
大当たりだったな」
殆ど白に近い金髪を靡かせて、男は鼻をならした。
透き通るような青い目に、もう一人の男――ソウを映して。
「おや、ばれていましたか、キリルさんの鼻は思ったより効くようだ」
黒いコートに黒い帽子、全身黒一色の装備で固めた男は、
眼鏡をクイと指で持ち上げるとニコリと笑った。
余裕綽々といった、その気取った仕草が気に入らずキリルは益々苛立ちをつのらせる。
こいつはいつもこうだ。誰を目の前にしても見下し、小馬鹿にするような態度を崩さない。
毒のある厭味ったらしい性格といい、狡猾で冷酷な振る舞いといい、
知り合った瞬間から“世界で一番嫌いな奴”ランキングを独占中だ。――勿論今現在も。
「当たり前だろ。お前の魔力は分かり易すぎる」
「ああ、それでも一応は隠したつもりなんですがねえ。流石は偉大な大魔女を祖母に持つ、キリルさんですね。
御見それしましたよ。それにしても少々冷えますね。冬場のロンドンは」
ソウの言葉にキリルは息を吐いた。祖国の冬を思い出す。
凍てついた大地と不毛の荒野が広がり、嵐のような雪が降り続ける故郷を。
あの魂まで凍る寒さに比べれば屁でもない。
「こんなの寒い内に入らないな」
「そうですか。頑丈な身体をお持ちですね」
こんなことでこんな奴に褒められてもちっとも嬉しくなかった。苦いものが込みあがるのを感じる。
クリス・ソウ。
キリルの目の前でニヤニヤと笑っている男の名前だ。
陰険で最低最悪な魔術師にして、悪名高き時間泥棒。
時間泥棒――エンデの物語に出てくるあれではない。
各地の時計塔を破壊して回る、悪行に対する最大限の賛辞として――(一応言っておくが、
これは英国流の皮肉だ)与えられた称号だ。
魔術師としての腕は確かだが、その力を悪しき方向にしか使えない男。
噂によるとさる流派の偉大な師を持っていたそうだがあまりの悪行ぶりに、破門にされたという。
今宵、この場所にソウが訪れたのも世界で最も有名なビックベンを破壊する為だった。
「この場所の封印は解かせない。
この国には学生の頃留学で世話になった借りがある」
「借り、ですか。いつからそんなに義理堅くなったんでしょうねえキリルさん。
酒と間違えて毒でも飲んだんじゃありませんか?」
「ああ、お前の厭味を聞くうちに毒されたかもな」
冷たい夜風が二人の合間を駆け抜けた。
「一応聞いておきますが」
ソウはコートの袖口をめくりあげ、腕時計をじっと見つめながら、キリルに問いかける。
「退く気はありますか」
「俺の国のことわざに、Назвался груздём, полезай в кузовってのがある。
意味はつまり、やるならやれって事だ」
「……退く気はないと。分かりました、全く」
やれやれといった感じにソウは首を振った。
「仕方のない方だ。行き急ぐと死が近づくだけだというのに」
零時が近づく。
その時まで、十秒。
「……それはどうだろうな」
九秒。キリルは唇を吊り上げる。
「おや? 私に勝つ自信がおありで?」
八秒。ソウは酷薄な表情へ変貌する。
七秒。
六秒。暫しの空白。激昂。
「貴方如きが、貴方程度が! この私に勝てるとでも?!
身の程知らずも甚だしい!! 弁えるがいい、ひよっこ魔術師が!!」
四秒。
知らないのか、とソウが笑う。
三秒。
「確かにお前は俺より魔術には秀でている。けどな」
そしてキリルも知らないのかと笑った。
「勝負は必ず強いものが弱いものに勝つとは限らないんだよ」
時計の針が十二を指して重なった。
瞬間、ビックベンが夜空に大きな鐘の音を轟かせる。
日本の学校のチャイムはこの音を元に作られているというどうでもいい知識が頭を過った。
ソウとキリルが呪文を唱えるのは同時だった。