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ぼくらのかみさま

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彼の口が音を紡がなくなってもう数えるのも億劫な月日が経過した。
当の本人といったら自身のそれなどまるで頓着の無いあっけらとした態度で、今日も私の紡ぐ言葉に泣いたり笑ったり凹んだり笑ったり怒ったり笑ったり。
中でも彼が最近見せる様になった顔の一つがどうにも気に障って仕方無いのだ。
それは主に、私が私の一人の部屋でアコースティックギターを弾いていると訪れる。
そう薄くも無い壁伝いに漏れた振動を辿り、ふらりと猫の様にプライヴェートを仕切るドアをすり抜けて現れる彼。
夢遊病者の様だ、と思う。足取りだけの話ではない、普段あんなに多様な表情を見せる彼のその時の顔と言ったらない。
床に座る私の隣が彼の特等席らしく、行儀正しく丸まる時もあれば呆然と足を投げ出している時もある。
ただ一様に、瞳だけは確りと閉じて私の指先が弾く弦の振動ばかりを、拾う。
きっとこの時の彼には他のどんな騒音も人の声も電車の音や鳥の囀りなどでさえ聴こえていないのだろう。私の声すらも。

だから私は手を止めるのを許されない。私の声すらも彼には届かないからだ。
私が彼に伝えるにはこの弦と指先で振動とするしかないからだ。

珍しく、彼が瞳を開きその夜の海の様な眼球を私に向ける。思わず手を止めて見つめ返した。
なに、と、口に乗せていたのかもしれない。乗せていなかったのかもしれないが、伝わっていたのでまあいいだろう。
まるで気配を感じさせない動作で、すっかり健康的に焦げた手で私の頬に触れてくる。そうされて私がどうやら泣いていた事に気がついた。
そうか、心が乱れていたのが音に出ていたんだな。お前の耳を汚してごめんと皺枯れた声で呟いて、もう一度、ギターに指を置く。
彼は不思議そうに首を傾げて私から相棒を奪い、私の頭を撫でた。
大丈夫だよと、人事の様な顔で笑って。

私のどんな声すらも彼には届かない。
私の指は私の音は全て彼の歌う声の為に存在しているというのに。
彼の口が音を紡がなくなってもう数えるのも億劫な月日が経過した。
当の本人といったら自身のそれなどまるで頓着の無いあっけらとした態度で、今日も私の紡ぐ言葉に泣いたり笑ったり凹んだり笑ったり怒ったり笑ったり。

ある日ぽっかりと、歌えなくなった彼、どこかに置いてきてしまったと呆然としてそれから喋る事すらしなくなった。
私が彼の声への供物である様に彼自身が彼の歌の供物であった。
その、恐ろしい、神の様な存在、ぽっかりと家出をしてもう戻る気は無いと言う。
私達はとても恐れていた。彼の喉に巣食う神、その中毒性や攻撃性や私達を隷属させる神々しさ全てに。

恐ろしかった。神がいないと私達はもうどうしようもないと判っていたのだから。


一度は懐かれた神にあっさりと家出をされた彼こそもっと打ちひしがれると思うのは浅はかか。
彼は神が居た頃よりも多彩で朗らかな表情をする様になったのだ。文字通り、憑き物が落ちて。

きっと、傍から見れば今の彼の方が幸せなのだろう。
止まらないのは私の涙ばかりだ。



神様。今更貴方はとても酷い。
どうせなら家出のついでに、私の指と相棒も盗んで行ってくれれば良かったのに。



【ぼくらのかみさま】
作品名:ぼくらのかみさま 作家名:コウジ