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アサヒチカコ
アサヒチカコ
novelistID. 50797
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戻らない春

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「げ、メガネブスとも同じクラスかよお。さいてー」
 去年までとは少しちがった景色の見える教室の窓辺で、友人の七恵がとつぜん発した大声に、わたしの肩はびくりとふるえる。彼女の視線の先では、重たい黒髪に眼鏡をかけた小柄な女子生徒が自分の席につくところだった。他の女の子たちも、あきらかに悪意のこもったひそひそ話をはじめている。
「やーだ、あんなだっさい学校指定のセーター、二年になっても着てる人誰もいないよお。さっすが、ブスはやることちがうよねー、あゆちん」
 七恵はけらけらと笑って同意を求めてくる。わたしはこめかみの奥がすうっと冷たくなる感じをおぼえながら、できるだけ小さな声でたずねる。
「うん……あのさ、ななちんの彼氏が去年一緒だった根暗な転校生って、もしかして……」
「あーそうそう、あいつのことだよー! つーかあゆちん、とっくに知ってると思ってたしー」
 あはは、と適当に笑ってごまかしたわたしの顔は、友人にはわからない程度にひきつっていたと思う。担任の教師が教室に入ってきたとき、彼女がぱっと顔をあげるのを、ななめ後ろの席についたわたしは見逃さなかった。ああやっぱり、あの子だ。間違いない。ほんの少しのよろこびはすぐに消し飛び、それとは正反対の暗く重たい気持ちが頭をもたげてきた。かすかに冬の肌ざわりを残した風が、校庭の木の枝をざわざわと揺する音が聞こえる。
 実をいうと、わたしは読書がとても好きだ。明るい色の髪、派手な化粧、着崩した制服といった外見から、それは誰にも想像しがたいだろうし、わたし自身もそのことを隠しておこうと思っている。だから、友人に出くわす可能性の高い、高校のすぐそばの書店にはあまり近よらない。楽しみといえば、週末に電車で少し行った先にある大きな町の図書館で、一日中本を読むことだ。その日は化粧もしないし、髪も巻かないし、ミニスカートも履かない。
 二、三日に一度くらいのハイペースで図書館に通っていた春休みのある日、いつも座っている窓際のテーブル席に先客がいた。はじめは、めずらしく同年代くらいの女の子がいるなあくらいの気持ちだったのだけれど、それから何度も顔をあわせるものだから、わたしもだんだんと彼女に興味を持つようになっていた。そして、わたしが思いきって声をかけたことで、彼女はおどろきながらも少しずつ会話をしてくれるようになったのだ。
 わたしたちは、お互いの名前と(彼女は緑といった)年齢が同じであることだけをたしかめて、個人的なことについてそれ以上は語らなかった。携帯電話の番号やメールアドレスも交換していない。ただ、自分が行きたいと思ったときに図書館に行き、相手がいたらとなりで本を読む。話が長引きそうなときは、図書館のそばの喫茶店に入ってお茶をする。それ以上のことはなにも必要なかったし、求めてもいなかった。春休み最後の日は、緑が先にいつもの席に座っていた。わたしもいつものように本を選び、となりに腰かけた。けれどそこには、こんな素晴らしい時間を過ごすのは今日で最後なのだという、諦めにも似た寂しさが横たわっていた。本から顔をあげるたびに幾度もながめた、ふれたらこわれてしまいそうに繊細な感じのある彼女の横顔を、わたしは一度も忘れたことはない。
 同級生の七恵の恋人のクラスに、去年の秋ごろ陰気な転校生がやってきて、クラスにいつまでもなじめないでいるという話は聞いたことがあった。けれど、それがまさか緑のことだとは思いもしなかった。わたしたちは、お互いが通っている学校の名前さえ知らなかったのだ。

 夏が近づいてきたある日の放課後、玄関で靴をはいている最中に雨が降りだしたので、わたしは自分のロッカーにしまってある折りたたみ傘を取りに廊下をいそいでいた。すっかり手になじんだ教室の扉をいきおいよく開く。その向こうに広がる異様な光景に、わたしは思わず息をのんだ。
 規則的に並べられていたはずの机はがちゃがちゃと動かされ、中心に丸い穴を形づくっている。そこで椅子に座らされているのは、緑だ。彼女の足もとには教科書やノートが散らばり、四人の女生徒たちがそれをとりかこんで立っている。緑以外の全員がいっせいにわたしのほうを向き、教室の中に詰めこまれた空気は一瞬ちぎれそうにはりつめたが、ひとりの声でそれはすぐにゆるめられる。
「なあんだ、あゆちんじゃーん。先生かと思ってマジびびったしいー」
 七恵だった。ほかの三人も、よく七恵と遊んでいるのを見かける同級生たちだ。うす暗いこの部屋の中でも、四人の目は猫のようによく光ってみえる。雨が降ってきたことを伝えると彼女たちは、やば、あたし傘持ってないよおなどと言いながら、鞄をかかえて廊下を走り去っていく。その靴音は笑い声とまざってひびき、やがて消えた。
 わたしは椅子に座ったままの緑に背を向けて、ロッカーの前で立ちつくした。いつの間にか雨はひどく強くなっていて、せまく息のつまるこの部屋をしめった匂いで満たしている。わたしは傘をつかみ、学校をとびだした。革靴で水たまりを踏み荒らしながら、バス停まで走った。そうしてやっと傘をひらくと、その陰にかくれて、強くくちびるを噛んだ。
 中学のころ、仲の良かった同級生の女の子がいじめを受けていた。そのきっかけが何だったのか、今でもよくわからない。結論からいって、わたしは彼女を助けられなかった。彼女は中学卒業と同時にどこかへ引っ越してしまい、連絡先ももうわからない。
 あの教室の光景を目の当たりにしたとき、わたしは中学のころから何も変わっていない自分に気がついた。ひたすら自分に言い訳をして、見て見ぬふりをつらぬく。学校の成績は勉強をがんばれば伸ばせるけれど、自分を変えるためには何をどうがんばったらいいのだろう。それとも、自分を変えたいと望むこと自体がまちがっているのだろうか。
 雨続きで重くよどんでいた町は、夏の力をたくわえ始めた太陽に照らされて、春よりももっと強くあざやかな色を放ち始めていた。夏休みを翌日にひかえた終業式の朝、緑は教室に姿をあらわさなかった。不登校だあーと、誰かが大きな声を出す。そこへ担任教師がホームルームのために教室に入ってきて、告げた。野村緑は、両親の仕事の都合でふたたび転校が決まったこと。引越しの準備があるため、今日は欠席し、今月中には県外へ出るということ。
 ストレス発散の対象がいなくなったことで、七恵やその取り巻きたちはあからさまに残念がっていたけれど、同級生の大半は何の反応も示さなかった。実際、積極的に彼女に近づいていやがらせをする生徒はほんの一部で、他の全員は本当のところ、緑にたいした興味も関心もなかったのだろう。でも、自分が緑を見つづけてきたこの目は、みんなとはちがう。
作品名:戻らない春 作家名:アサヒチカコ