クロスワードパズル考(宇祖田都子の話より)
私は彼がなぜこれほど真剣なのかが分かりませんでした。やっぱりたかがクロスワードパズルではありませんか。そして何故私がこの話を聞かなくてはならないのでしょうか。私は出版社の人間ではありませんし、クロスワードパズルフリークでもありません。たまたま近くに来て、彼の動向に興味をもっただけでした。彼は十分に回復しているのだと、私は胸の中でため息をつきました。それが確認できただけでも十分だと。彼の音楽は健在だった。ただ少し長く過ぎるだけ。
もしかしたら、彼が話したかったのはクロスワードパズルのことではなかったのかもしれません。それをダシにして何か他の事を批判していたのでは無かったでしょうか? ああ、でも私は彼の輪唱の中からクロスワードパズルに関する言葉だけを聞き取ってしまっていたのです。聞こうとすることをあらかじめ限定してしまっていたとしたら、耳から零れていった言葉の中にこそ、主題があったのかもしれません。でもそれなら始めからそれについて直接語ってくれれば良かったのです。私に対してそんな回りくどい戦略を立てる必要はないのですから。私の生活は彼の生活になんの影響も及ぼさない位置にあるのですから。
私はそう思いながら、一つのことに気づいていました。この居心地の悪さの原因は、つまり今日、この場所に座っているのが私でなくとも、彼は全く同じ事を話したのではないかという、ほぼ確実な可能性に気づいてしまっていたからだったのです。それで私は自分を否定された、いいえ、完全に無視されていたのだということにプライドを傷つけられていたのでした。
彼とは交流できないのだ。私はそう思いました。それはとても悲しいことだと私は思い、それからすぐにそうではないと気づきました。
私は交流を求めて彼の部屋に立ち寄ったのだったでしょうか。いいえ、私は珍しい品物を商っている店先をちょっと冷やかす程度の気持ちで扉を叩いたのでした。私は客の立場でしかありません。そして、彼が主人なのです。客はまず商品を見ます。しかし、主人は客を見るのです。客だけを見て判断するのです。彼が私を見て持ち出したのは、クロスワードパズルでした。それはたちどころに私を捕らえたのです。
彼の部屋を誰かが訪れるのは本当に久しぶりなのだと、彼は口篭もりながら言っていましたっけ。それははにかんでいるわけではなかったのでしょう。しばらくどこへも行かず、誰にも会わなかった彼の饒舌さとは、つまり、長期間の休暇を取っていた脳髄と言語器官との連結に対するリハビリテーションの為に違いないのです。その態度を不実だとなじるのはたやすい。しかし、私にも非はあったのです。だからこそ私はこの席を立てずにいるのではないでしょうか。彼の言葉は途切れる事なく続いています。独特のあの反響が肉声とほとんど変わらない囁きの渦が、幾重にも私を取り巻いています。やがて私が眠りにつくまで、そして夢の中にまで、彼の語りは侵入してくるに違いありません。正方形という完成された形態の中を区切るさらなる正方形の一マスに、彼は次々と言葉を注入していくでしょう。私自身が彼自身のクロスワードパズルとなることは、すなわち、彼の時間潰しの為でしかなかったのです。
それにしてもクロスワードパズルとは!
この選択が私に対してどれほど有効であったかを考える時、彼という存在が果てしない闇のように感じられてくるのです。私は埋められるのを待ち望む正方形の白紙となって、深い闇の中空を漂うしかないのです。
「多くの言葉を重ねていく。やがて言葉に耐えられなくなって裂け目が出来る。そこから、何が覗いている?」
作品名:クロスワードパズル考(宇祖田都子の話より) 作家名:みやこたまち