黒いスイッチ
再就職も出来ず妻には逃げられ、アパートを追い出された。
貯金も尽き財布の中は15円。
昨日を最後にネットカフェ難民が終わった。
そして、今、俺は昼下がりの平日に誰もいない公園のベンチの上へ座っている。
もう自殺してもいいかと思ったがなかなか怖くて出来ないのが人間の性なのか。
そんな事を考えていたら話をかけられた。
「こんにちは。今、あなたにこのスイッチを押していただきたいのですが、よろしいでしょうか?」
なんだコイツ。
声や体格からして男だと思う。
黒い帽子、黒いYシャツ、黒いスカーフ、黒い手袋、黒いコート、黒い革靴。
服装の印象は上品に感じた。
だが、存在は不気味に感じた。
何故ならこの男の顔に黒いモヤがかかって見えないからだ。
ただニヤついた口元だけは分かる。
「あぁ、これは失礼!いきなり言われても戸惑っちゃいますよね!」
俺は怪訝な表情で男を見た。
「やだなー!そんな顔をしないでくださいよ!私はあなたに幸せを掴むチャンスを与えに来たのですよ。」
「幸せ…。」
「そう!幸せ!」
しまった。つい会話をしてしまった。
「ご説明させていただきます。ここにスイッチがあります。」
男の右手には黒色のスイッチがあった。
ファミリーレストランで店員を呼ぶ時に使うようなシンプルなスイッチだ。
「それでですね。このスイッチを押すと地球上の誰か一人が死にます。そしてあなたは幸せを得る事が出来ます。」
「は?」
「あぁ、分かります!分かります!自分のせいで誰かが死んだら罪悪感で一杯ですよね!ご安心を、このスイッチを押して死ぬのは、身寄りもなく誰からも必要とされていない方です。例えば…そう!空腹に耐え寒空の下で凍えているホームレス、戦争で家族を殺され裸足で戦場を歩く子供、延命治療器に繋がれ意識のない老人といった方が死にやすいですね。」
この男、訳が分からない。分からなさ過ぎる。
だけど、何故か俺は会話を続けてしまう。
「押したら誰かが死んで、俺が幸せになれるのか?」
「左様でございます。」
男は笑顔で言う。
普通だったら俺はこんな男を無視してどこかへ行くだろう。
だが、この男には俺を惹きつけ信じさせる何か不思議な力があるんだと思う。
「あ、ちなみにスイッチを押して、あなたのせいで誰がか死んだ事は、一切バレずに殺人罪とか罪に問われる事はないので、安心してくださいね。」
何故こんな事をして俺にスイッチを押させようとするのか質問しようとしたが、男のモヤのかかった顔を見ると、それは聞いてはいけない!と俺の中の何かがそう叫んだ。
だから聞かなかった。いや、聞けなかった。
俺は考えた。
俺は今、不幸だ。不幸のどん底だ。所持金15円。貯金0円。
明日…。いや、今からどう生きるのかさえ分からない。
このスイッチを押せば、誰かが死に俺は幸せを手に入れる事が出来る。
押して得る幸せとはなんだろうか?
押した瞬間、宝くじが飛んできて、それが1等で5億円とかそういう感じか?
そうなったら最高だな。
こんなクソゴミクズみたいな人生とはお別れ。
豪邸を買って、ランボルギーニに乗って女と遊んでハッピーエンドじゃないか!
いや、待て。誰かが死ぬというリスクがある。
しかし、死ぬのは生きていても意味のない奴。
生きているのも死んでいるのも同等の人間。
死んでも誰も困らない存在。
しかも、死んでも一切、俺は罪に問われる事はない。
…本当に押してしまおうか?
いやいや!よく考えろ!誰かを俺が殺すんだぞ!
気味が悪いし後味が悪い…。
そう考えていたら腹が鳴った。
今朝から何も食べていない。
今日の夜から寝床もない。こんな生活がずっと続く。
それを考えただけで胃が痛くなる。
俺はまた考えた。
そもそも、誰からも必要とされていない奴が死んでも誰も困らない。
死んでも俺のせいだとはバレない。罪にもならない。
むしろ、そんな奴は死んだ方が幸せじゃないか?
俺みたいな悪役も世界には必要じゃないか?
いやいや、俺は救世主みたいなもんじゃないか?
「結構、考えてますね。なんでしたら強制ではないのでやめますか?私、他の方の所へ行きますし。」
「待て!そのスイッチは俺が押す!他の奴に幸せを渡してたまるか!」
俺は男からスイッチを奪い押した。
その瞬間、俺は死んだ。
END