濃霧町のお話「±0」
俺の場合、その運というのが少し特殊で、どうやってもプラスマイナス0になるのだ。
もっと詳しく話そう。とある良いことがあった後、必ず同じくらいの悪いことが起こるのだ。逆もある。例えば小学生の頃だ。学校からの帰り道、俺が道端で百円玉を拾って帰ると、弟が俺の分のお菓子まで食べていたことがある。また車に撥ねられ入院した時は、好きな女の子がいの一番で見舞いに来てくれたこともあった。
だがこの法則は時折例外があるようで、良いことと悪いことがプラスマイナス0にならない時もある。給食の好きな献立が多めに入っていた後、無実の罪を被って教師に酷く怒られたこともあった。
以上の「プラスマイナス0の法則」に気付いたのは同じく小学生の頃だった。分かった日から悪いことが起こったときは良いことを期待し、良いことが起きたときはびくびくしながら生きていた。
その日の仕事は休みだった。目が覚め、いつものようにカーテンを開けると強く鋭い陽の光が俺の目を刺した。一昨日買った即席焼き蕎麦に湯を入れ、薄荷煙草に火を付ける。テレビでは地方局のニュース番組が流れている。どうやらここ、濃霧町に新しくショッピング・モールができるそうだ。ぼっ、と見ていると三分を知らすタイマーが鳴った。俺は焼き蕎麦の容器を持ちシンクに湯を捨てる。湯気が顔にかかり始めたとき、ざばぁ、と勢いよい音と共に焼きそばをシンクにぶち撒けてしまった。
誰にあてるわけでもない舌打ちをし、食べなられなくなった焼きそばを捨て、新しい朝食を引き出しから探す。すると陽の光がきらり、と引き出しの奥の何かを照らした。手を伸ばし摘み上げると、無くしたとばかり思っていた指輪が出てきた。今回はこれか、と思いつつ懐かしい指輪を中指に付け、即席ラーメンを出し、引き出しを閉めた。
少し膨れた腹をさすり、再び煙草に火を付けてテレビを眺める。灰皿に吸い殻が0小さな山を作っていたころには十二時を回っていた。折角の休日なのに家に居るのは勿体ない。そういう思いから着の身着のままで外に出て、バス停に向かった。すると普段はニ十分に一度程度しか来ないバスがバス停に着いてすぐやってきた。後ろのほうの席に座り、見慣れた町を眺めていると、突然バスが急ブレーキ。無防備な俺の体は慣性に突き飛ばされ前の席のシートに強く頭をぶつけた。怪訝そうな顔で振り返った乗客に小さく会釈し、痛む頭を押さえた。
目的地に到着し、バスを降りる。既に午後になった市街地は沢山の人間にあふれかえっていた。俺はほんの少しの苛立ちを感じながらもその人ごみの中をゆっくりと歩いた。
よく行く店を数件周った後、喫煙所に入り煙草に火を付ける。左手首に付けた腕時計は三時を指していた。思ったより早くやることが無くなったな。そう思いながら煙を吐き出すと、ふいに今朝のショッピング・モールのニュースを思い出した。そういえばここからすぐ近くだった。特に何があるわけでもないが眺めに行こうと思い、まだ半分ほど残っている煙草を口にやった。
「県内最大!濃霧モール」
建設現場の白い壁にはそんな文字が踊っていた。ショッピング・モールというと平たく、横に広いものを考えていたが、ここは珍しいことに小さなビジネスホテルもつくようで、出来たばかりの骨組みが壁をゆうに超えてはみ出していた。恐らく十階、いや十五階くらいはあっただろう。
案の定、特に面白くもなかったので立ち去ろうとしたその時、小さくぶつん、という音が聞こえた。音のほうを振り返る。上だった。ワイヤーが切れ、鉄骨が俺めがけて降ってくる。次第にそれは大きくなる。驚きで硬直した体を無理矢理動かし飛びよける。ドズンという爆発音にも似た音が鳴り響く。地面が衝撃で静かに震える。恐る恐る振り返ると俺の後数十センチのところに、自動車程度の大きさの鉄骨が横たわっていた。
俺は避けたままの寝そべった態勢で大きくため息をついた。その時、雷光のように或る疑問が脳を刺した。
「プラスマイナス0の法則。『悪いこと』が起きた後は『同程度の良いこと』がある。『良いこと』があった後は『同程度の悪いこと』がある。
しかし、今回はその『良いこと』と『悪いこと』がほぼ同じに起こっている。この場合はどうなるのか?」
「鉄骨が落ちてきたという『悪いこと』の後、それを躱せたという『良いこと』が起きたのか、それとも鉄骨を躱し、命が助かったという『良いこと』だけが起きたのか?そうだとすればプラスマイナス0というのは―」
今、冷静な頭で考えれば「鉄骨が落ちてきた『悪いこと』だけ起きた」という可能性もあった。しかし、その時の俺の頭はそんなことを考える余裕なんてなかった。「前者」であることを強く祈り、沸騰した湯のあぶくのように湧き出てくる「後者」の考えを何度も何度も切り捨てた。しかしその考えは次第に脳を侵しはじめた。手は震え、視界はぼやけ、両の脚に地面を踏んでいるという感触が薄れてくる。脂汗をかきはじめ、どこにもない避難場所だけを探し歩いた。延々と、延々と―
気が付くとと俺は知らない部屋にいた。白い壁、清潔なベッド、圧迫するようなカーテン、小さなテレビと小さな箪笥。どうやらここは病院のようだ。すると俺はあの後倒れて、救急車で運ばれたのだろうか。しかし体のどこにも痛みもなく、腕にブドウ糖の入った点滴の針が固定されているだけだった。
「山田さーん、あ、気が付かれたようですね。」
そう考えていると病室に入ってきた看護師が俺に声をかけた。
「あ、はい。あの、俺はなぜここに?」
「覚えてらっしゃらないのですか?山田さん、今日の三時半頃に天神通りで倒れていたのですよ。それを通りすがりの方が発見されて、救急車を呼んで頂いたんです。」
「は、はあ。そうなのですか。ありがとうございます。」
「いえいえ。一応簡易検査では特に何もないようなので、明日には退院できますよ。それでは何かあれば呼んでくださいね。」
看護師は終始笑顔で俺と会話し、部屋を出た。
しかし、結局あの出来事はどうカウントされたのか。時計は夜の八時を指している。がいまだに「悪いこと」が起きていないので、あれだけ恐怖していた「良いこと」ではなさそうだ。逆も然りでどうも「悪いこと」とカウントされたわけではないだろう。となると「良いこと」と「悪いこと」が同時に起こった、という結果が残ったが、二十五年生きてきて初めてのケースだったので、果たして本当にそうなのだろうか・・・
暫く考えていると、また雷に打たれたように一つの文章が脳裏をよぎった。
「プラスマイナス0の法則。例外として、確率は薄いが良いことと悪いことがプラスマイナス0にならないこともある。」
数秒考え、俺は大きくため息をつき、小さく呟いた。
「どうやら、「良いこと」にカウントされたようだ。」
俺は人ごみを歩いた一時過ぎの俺に強く感謝した。
幕
作品名:濃霧町のお話「±0」 作家名:予野端 万理