遠い記憶
夢の中で、わたしは泣いていた。夢だということはわかっていたのでかえって歯止めがきかず、とめどなく涙が流れた。
そのとき、暗やみの中からだれかが近づいてきた。それは若い大人の女性で、驚いて泣きやんだわたしの肩にそっと手のひらをおくと、恥じらいをふくんだほほえみを微かに浮かべながらこういった。
「悲しいんだね。でも心配しないでいいよ。あなたは将来、必ず幸せな人生を送るようなるから。あたしが約束する」
わたしはあなたは誰なのかときいた。女性は、「ごめんね。今はいえないの。それに言ったところであなたは信じてくれないと思う。でもあたしは、あなたのことをいつもいつも心配している。あなたのことが好きで好きでたまらない。それだけは信じて」といった。言いおわると、女性は再び暗やみの中に消えていった。わたしの頬の涙はいつのまにか乾いていた。
当時わたしは学校でいじめに遭っていた。持ち物を隠されたり、どの仲良しグループにも入れてもらえなかったりといった、ありきたりのいじめではあったが、どんなに見知ったケースでも、当事者にとっては「ありきたり」では済まされないものだ。わたしは学校にいくのがひどく辛く、学校から帰って自室に入ったとたんに泣き出すような毎日だった。しかし、隣には姉の部屋があり、あまり大きな声を出して泣くことはできなかったので、布団をかぶって「忍び泣き」をしていた。学校でいじめに遭っていることは、家族にもどうしても知られたくなかった。
しかし夢をみた日を境に、わたしは変わった。相変わらず学校では仲間外れにされていたが、気持ちは独りぼっちではなかった。それはいつもあの若い女性がどこかで見ていてくれているような心地がしたからだ。
「あなたは将来、必ず幸せになる」という女性の声が、何度も何度も心の中でささやきかけてきた。「ここでくじけちゃいけない。必ず幸せになれるんだから」わたしはそれを信じた。信じる気持ちがさらに固まるにつれて、学校でのふるまいも変わったのだろう、わたしをとりまく状況も少しずつ変わっていった。
歳月を重ねるにつれて、あの女性の声が聞こえることは少なくなっていた。しかし、受験や恋愛や仕事や人間関係など、苦しいときはかならずあの女性のことを思いだした。あの言葉はわたしにとって、生きてゆく上でのひとつの支えになっていた。
その日わたしは残業を終え、午前１時すぎにようやくアパートにたどり着いた。途中のコンビニで買ったサンドイッチをテーブルに放り出したまま、シャワーを浴び、歯を磨いて、冷たいベッドに潜り込んだ。
きょうもとても忙しかった。でも、ちょっぴり嬉しいこともあった。そんな思いをかみしめながらまどろむの中で、あの女性のことを思い出した。
いま三十歳を間近にして、あの予言が当たったのかといえば微妙だが、自分をとりまく今の状況や、日々の心持ちを振り返ってみると、べつだん不幸というわけでもない気がする。「半分ぐらい当たってるのかな」わたしは暗がりのなかで少し笑った。そのあとすぐに、わたしは深い眠りの中に落ちていった。
夢の中で、ひとりの少女が泣いていた。わたしにはその少女が誰なのかすぐにわかった。駆け寄りたい気持ちをおさえながら、ゆっくりと少女に近づいた。少女はわたしに気がつくと、涙で濡れた顔を向けた。わたしは少女の肩に手をおきながら、こういった。
「悲しいんだね。でも心配しないでいいよ。あなたは将来、必ず・・」
作品名：遠い記憶 作家名：DeerHunter