侵略の夜空
なにもない場所だった。果ての見えない白い砂の地面と白の光で満ちた冷たい空。声は少しも響かず、空気は乾いている。
「よかった、夜のかけらは機嫌がいいみたい」
ぼくはアルに続いてパラソルの下に潜り込むとその天井を見上げた。星が降る夜だった。月はない。ぼくは大きく深呼吸して昨日掬ってきたばかりの夜のかけらのにおいで肺を満たした。
「始めよう」
「こんなところで何を釣るの?」
アルはぼくの質問に答えずに革の鞄の中から銀色のスコップを取り出し、白い砂に突き立てた。
「さぁ、きみも」
アルはにこりと笑ってぼくを催促した。
ぼくは仕方なく自分の鞄からスコップをとりだし、彼の真似をして砂の上に突き立てた。
「見て」
アルが言ってスコップで砂を掬い上げると、出来た小さな穴の向こうに薄く透き通った青が見えた。
「水?」
「違うけど、まぁ似たようなものかな。この中にいるのを釣るんだ」
ぼくたちは銀のスコップを使って、二人が釣り糸を垂らすのに十分な大きさの穴を掘った。
「さぁ、いよいよだよ」
アルはぼくに釣り竿を一本渡して、自分ももう一本を準備し始めた。
「魚釣りとは違うから、餌はいらないんだ。ただ引っ掛ければいいんだよ」
ぼくらは夜の下に穴を挟んで向かい合って座り、釣り糸を垂らした。
「そろそろ教えてよ、何を釣るのがきみの仕事なんだい?」
ぼくはアルに尋ねながらその何かを引っ掛けようと釣り竿を小さく上下に動かした。
「境界線」
アルの静かな声はひっそりと白の世界に吸い込まれていった。
「なんだって?」
「ここは、昼でも夜でもない、その境界線上の空間なんだ。…きみ!かかっているよ!」
ぼくは慌てて糸を巻き上げた。重みは微かだ。やがて見えてきた針の先に絡まっていたのは、細やかな鎖のような銀色の糸だった。
「これが?」
「境界線さ。さぁ、全部釣り上げちゃってくれよ」
ぼくは釣り竿を置くと境界線を手に取り、それを引っ張った。抵抗はほとんどなかったが、果たしてどれほどの長さがあるのかがわからなかった。引いても引いても蜘蛛の糸のように紡ぎ出されてくる。
アルは黙ってぼくの仕事を見守っていた。
ぼくの横に、境界線が山のように積み重なってきた頃、ついに糸が止まった。
「どこかに引っかかったかな?」
ぼくが言うとアルは笑って言った。
「違うよ、境界線が伸びきったんだ。思い切り引っ張って、糸を切って」
ぼくはうなずいて、糸を握り直すと、思い切り引っ張った。
ぷつ、という音がどこか遠くで聞こえて、ぼくは尻餅をついた。目に飛び込んできたのはパラソルの天井。夜のかけらがパラソルから白の世界の四方八方へと勢い良く飛び出している。
世界は、瞬く間に夜へと変わった。
緩やかな夜の風がぼくの頬を撫でる。
アルは優しいような哀しいような目で、空を見ていた。彼の髪が、風になびく。
「任務完了」
アルは言った。声は心地よい残響を風に乗せてぼくの横を通り過ぎた。
「これで、ここも夜だ。今日から、ずっとね。…さぁ、帰ろう。ぼくらの夜に」
ぼくらは釣り上げた境界線を鞄に詰め、からっぽになったパラソルを再びかつぎ、その夜を後にした。
(終)