トモシビ
ある冬の日のことである。突然姉が俺の部屋を訪ねてきた。
「会社辞めた。アパートも引き払ったからしばらく泊めて」
そう一息に言うと、俺の返事も待たずに、大きな黒いドラムバッグを抱えて室内へと突入してきた。何も言えずにその様子を見ていると、
「茶」
「は?」
思わず聞き返したら一睨みされてしまった。
「おねーさまがやって来たのだからお茶くらい出せと申しておる」
そうか。すっかり忘れていた。丸二年も会わなかったからだろうか。
俺のねーちゃんは滅茶苦茶な女だってことを。
ねーちゃんは俺より二つ年が上である。
しかしその昔から、親、兄弟(俺と弟)、親戚一同を振り回して生きていた。小学校時代、確か正月に一族が介した時だったと思う、その場で突如「タップダンスを習わせてくれ」と宣言し、老人方を仰天させた。困惑する両親を拝み倒し、田舎に偶然あった教室に通い始めるものの、三ヶ月ともたずに「アタシにゃどうも無理みたい」などと吐かして、あっさり止めてしまった。
その後もバレエ、ハーモニカ、水泳など色々と手を出すもどれも長続きせず、最終的には中学に入ってから始めた剣道に落ち着いた。
どうせまた、などと弟と冷やかな目で見ていたのだが、当人のやる気がどう気まぐれを起こしたのかは知らない、しかし姉弟一のスロースターター(要はただの低血圧)であるにも関わらず、積極的に朝練に参加するなどしているのには驚いた。高校に入る頃には、すっかり完璧な剣道少女へと変貌を遂げており、休日に朝からボンカレーを食って朝練に出かけていくのを目撃した時は、弟と顔を見合わせたものである。
ねーちゃんは結局高校三年間を剣道に捧げた。主将も務めたりするなど色々頑張ったようだが、最終的には県大会止まりで終わった。そのことが当人には胸の痞えになったようで、東京の短大に入ってからねーちゃんは完全に竹刀を捨てた。
短大で何があったのかは知らないが、ねーちゃんは竹刀を絵筆に持ち替えた。今度は絵にのめり込んだのである。しかし今度はさらに性質が悪かった。美術熱が高じたのか、短大を卒業したら画材を扱う会社に就職すると言い出した。この時ばかりは俺と弟が必死に考え直すよう電話で説得したのだが、既にねーちゃんの自由奔放っぷりに嫌気が差していた両親が、なんとゴーサインを出してしまった。
結局はねーちゃんのお望みどおりに就職は決まった。その祝いや丁度俺自身も東京の大学に進学することが決まっていたので、下宿を探すがてら久々にねーちゃんに会いに行った。短大の近くの喫茶店で待ち合わせたのだが、ねーちゃんは時間を十五分以上遅れてやって来たのを覚えている。俺はその時ねーちゃんの変わり様に驚いた。高校時代にトレードマークだったポニテは、いつの間にかバッサリ切られていて、自分で切ったようなザンギリ頭にまず驚愕した。コーヒーが運ばれてくる間に二本も煙草を吸ったのも意外だった。
「煙草…吸うんだ」
「あ、ごめん。アンタ煙とか駄目だったっけ?」
俺の一言によって、火を点けたばかりの三本目の煙草は、ぐしゃぐしゃと灰皿の中で揉み消された。
「いや、別にそういうわけじゃねーけどさ。なんかねーちゃんも吸うんだなーって思っただけ」
「あはは。まぁね…アタシも昔は剣道少女の端くれだったからなー。自分でも吸うようになるとは確かに思わなかったわ」
「悪い。もったいないことさせちゃって」
「いやー、いいよ。別に。うん。弟の前だってのにさ、ついいつもの癖で」
いつもの癖、か。なんだかその言葉が妙に心に引っかかった。何故だか考えを巡らせる間も無く「ホット二つお持ちしました」というウェイターの声によって、俺の思索は中断させられた。
それから少しの間、俺たちは沈黙の多い気まずい会話をした。店の中は真昼だというのに客は少なく、眼鏡をかけた初老の主人と長い髪のウェイトレスはカウンターの中で談笑していた。窓際の席だったので、差し込む午後の日差しがグラスに反射して少し眩しかったのを覚えている。
しばらくしてねーちゃんの携帯が鳴った。会社からの呼び出しだということで、俺たちはここで別れることにした。
「お母さんによろしく言っといて」
そう短く言うと、伝票を掴んで席を立った。そして勘定を済ませると静かに店を出て行った。この時俺はねーちゃんの背中がひどく寂しそうに見えた。何かわからない、とても大きなものを相手に、ねーちゃんは戦っているようだった。それでも俺は何も言うことが出来ず、ただその姿を見送ることしか出来なかった。