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みやこたまち
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novelistID. 50004
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マロニエのへのへのもへじを登る男

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「また叱られる」

 幼かった男はマロニエ並木を潜りながら幾度もリュックの中身を思い出してみた。なぜだろうか。昨夜は全く思い出せなかった今日の時間割が、自転車通学途中の、もうあの坂を登り終えたところが校門だという間際になって、突然思い出されてしまった。

 へのへのもへじの形でだらだらと続く上り坂を、冬服の隊列が登って行く。

 一面に薄い黄色の山間に、こうして、朝の登校風景の、ある瞬間にだけ、墨汁みたいにてらてらとしたへのへのもへじが現れる。いやいや「じ」はあらかじめ、マロニエ並木の尽きる境界線だ。
 この季節には薄い黄色の輪郭の中を、這い登って行く墨汁の目、鼻、口。
 幼かった男の目にありありと映る今日のへのへのもへじは、心なしか眉が吊り上がり、唇がひきつれたような笑みをたたえているように見える。
 今、あの顔の全貌が見渡せる位置にいる男は、既に三十分遅刻していた。そして、あのだらだら坂でこの三十分を縮めるのは絶望的だった。

 昨夜だろうか。放課後確かに書き写した筈の時間割記入簿が鞄の中に見当たらない事に気づいた。いいや違った。自分の家の玄関先からも、校門まで途切れることなく続くマロニエの葉は、黄緑色ではなく、薄い黄色で、通学路を埋め尽くしていた。剥がれ落ちた幹も(ジグソーパズルのピースのように)散乱していたのだまるで、この町全体が剥がれ落ちたマロニエの(ジグソーパズルのピースの)モザイクで出来ているのだとでも言いたげに、アスファルトのひび割れも、至る所に支流を走らせる小川の堰までをも、この冬枯れたカサカサのかさぶたみたいな物で出来あがっているのだと言わんばかりに、埋め尽くしていたのだ。

 あの坂を真一文字に横切るバスに、幼かった男は数名の友人と乗っていたのだった。つや消しの銀色に輝く車体にこの晩秋の景色は移ろわず、常に初冬の切っ先を携帯しながら彼らを運ぶ定期運行バスの終点まで、男は数名の友人と一番後ろの席に陣取って密談をしていたのではなかったか。

 昨朝の事だ。珍しく冷え込み、木枯らし1号と認定されてもおかしくない程の北風が、重く垂れ下がった黒い雲の畝から吹き降ろしてきて、男は自転車通学を諦めた。
 間違い無い。幼かった男はどこもかしこも銀色に輝く自転車に乗って通学していた唯一の学生だった。特別待遇だといってつらくあたる生徒達も多かった。何故、自分が自転車通学を許可されているのか、だいたい誰が許可申請を提出したのかすら、幼かった男には分からなかったが、その日は、坂上から吹き降ろす北風があまりにも強く、ところどころで渦を巻いて立ち上るマロニエの落ち葉が、自動車の通行すら危うくしていた。

 その前日? 幼かった男は自分の持ち物に何の不審も持たなかった。それよりもその日に行われる跳び箱の試験の方がよほど気にかかっていた。他の生徒の多くが、その前に行われる後期試験の方へ気を取られているというのに、男は台上飛び込み前転ばかりをイメージし、一度も巧く想像することが出来なかった。だいたい、踏み板があんなに箱から離れていては第一着手すらおぼつかない。
 体操部の同級生はいとも簡単に跳び箱に向かって突進し、確かに一瞬地面と平行に浮かび上がって、それからゆっくりと跳び箱の上で一回転すると、まるで食器乾燥機の蓋が閉まるみたいに美しい放物線の最後を締めくくった。男は彼の顔を自分の顔にして、彼の体を自分の体に見立ててイメージしようとしていたけれど、彼と体操部の同級生とは生い立ちも違うし趣味も違った。
 彼は誰彼なく人と接し、話題も豊富で、道化ながらクラスを牛耳っていた。それに身長だって十五センチは違う。男は自分の身長を恨んだ。せめてあと十センチ低かったなら、想像力は体操部に追いつけた筈だった。あの試験はどうなったのだろうか。

 今、「へ」の中ほど辺りで必死にペダルを踏んでいる男に、それを思い返すゆとりは無かった。

 必要な物が入っていないせいで軽い筈の鞄の重さが、両方の肩にずっしりとかかり、背骨を軋ませ心臓を圧迫している。濡れた落ち葉に車輪が空回りする事数度。

 「休めばいい」

 幼かった男はよろめいた。足に力がはいらなくなった。この坂道の途中で足を止めることはつまり、重力に引かれて落下する事を意味していた。学校へいたる途上、幼かった男はただ、落下する恐怖から逃れるためだけに、危ういバランスを保って再びのろのろと、「も」の辺りを登り始めた。

 休むなんてこと可能なのだろうか。ふと鼻先にクリームシチューが香った。男は慌てて首を振った。ハンドルがぐらつき車道へ飛び出しそうになる。車道と歩道とは分け隔てなく落ち葉に埋もれていたが、もともとは十五センチの段差がある路面だ。車道は自転車では走れない。自動車だって走れない。通学者達は磨きぬかれた黒靴をそっと差し伸べ、「くるぶしまで、くるぶしまで」と騒ぎながら登って行くのが常だった。
 くるぶしと言っても、それは体重をかけずにそっと足を置いた場合だけのことだ。

 「も」と「へ」の道は全面通行止めになっている。ただ、通学路はここしかないので、歩道だけは特別に通行可能にしてあるのだし、実際、この分厚く堆積した落ち葉の下に何が埋もれているのか分かったものじゃない。もしかしたら、男の時間割記入簿もそこにあったのかもしれない。

 突然、目の前の交差点を銀色のバスが横切って行った。そう。落ち葉に沈み込まないだけの速力を維持したままの銀の刃が真一文字に晩秋を切り裂き、その傷跡をふさごうとでもするように、薄黄色の蝶が巨大なパイプラインとなってバスを追って行った。あれは報復なのか、それとも単に、冬が秋をからかっているのだろうか。「もうすぐだ。もうすぐここも白くなる」と。

 男は一つ手前の交差点の前まで滑落した。
 スクールゾーンをバスが横切るのは、制限時間が終了したためだ。校門は閉ざされた。そして、この先あの交差点を渡る事は三途の川を渡ることなのだ。ああ。幼かった男が、今日、欠席ではなく遅刻だったのだと証明してくれるのは……
 あの交差点を区画する要塞のような城壁のてっぺんに建つ洋館に誰が住んでいたのか、今尚男は知らない。
 「も」の上の横棒から下の横棒の手間まで吹き飛ばされた男の目には、三角屋根の登頂に串刺しにされた風見鶏しか見えなかった。

「あいつ、落ちたぜ」

 行過ぎたバスの最後部の席を占領した学生の一人が、付けたしのように呟いた。 (了)