午前0時の悪魔の酒
行きつけのバーで、隣に座った若者が、バーテンダーにそう聞いた。
「あるよ」の言葉に私の心はざわついた。
何事もない穏やかな土曜日。「こなさなければ」と思っていた仕事もキャンセルが入った。
予定外の休日を私はもてあましていた。テレビドラマの録画をなんとなく見たり、以前に熱中したパソコンゲームに興じたりした。つまり、私は退屈していたのだ。
夜になり、不毛な一日を反省し、ふさぎこんでいた私は、行きつけのバーで酔っ払ってしまおうと思ったのだ。
悪魔の酒「アブサン」その酒が現存しているとは思わなかった。
アブサンはニガヨモギを含ませた、ハーブ系の酒である。ニガヨモギに含まれているツジョンには、マリファナに似た向精神作用がある。中世ヨーロッパの錬金術師が作った酒とされている。
嘗てゴッホが愛飲し、太宰治も飲んでいたとされている。
ゴッホは友人のゴーギャンに「自画像の耳がおかしい」と言われて左の耳を自ら切り落とした。太宰の末路は言わずもがなである。ロックミュージシャンのマリリン・マンソンも愛飲していると言われている。
私はドラッグに近いこの酒は販売禁止になったと聞いていた。
今では手に入らない「悪魔の酒」がアブサンである。
しかし、アブサンは法で禁止された幻覚作用のある成分を減らして、今でも販売されていたのであった。それを私は知らなかった。
「何かあったのか?」バーテンダーは若者に、そう聞いた。
72度もある、癖のある酒を飲む気になった若者の心情を察したのだろう。若者はバーテンダーの、なじみの客なのだろう。
「別に。なんとなく」若者はそう答えた。
その若者がどのような仕事をしており、どのような個性を持った人物なのか、私は知らない。
バーテンダーは薄緑色の悪魔の酒をカウンターの上に置いた。
「はいよ、アブサン」
アブサンの香りが私の鼻をくすぐった。
この匂いは・・・古い記憶が蘇った。
私には数年前まで、意中の女が居た。
彼女とは職場で一緒だった。気の強い、化粧気のない女で、上司の私に事あるごとに反発した。体が小さく、生意気な女だった。
しかし、残業が続く日に、彼女はカップラーメンを作り、「ひとつは多いから」と半分わけてくれた。それを二人でよく食べた。深夜まで小さなオフィスで仕事をして、凝り固まった体を伸ばすと、視線の先にはいつも彼女が居た。
だから、どうなった?どうにもなるはずが無い。私には妻がいるのだ。
やがて、私は家を買った。何時までも賃貸マンションでは甲斐性なしと、世間とやらに思われたくなかったからだ。
「家を買ったよ」小さなオフィスの深夜0時。私はそう呟いた。彼女がキーボードを叩く音がしていた。返答は無い。代わりにマウスをクリックする音が一定の間隔で聞こえていた。
「日付が変わったぞ。上がったらどうだ」
「先に上がってください。私はもう少しやっておきます」
「そうか、じゃあ、先に上がるぞ。あんまり無理するなよ」
「平気です」
私はデスクの上を片付けて、バックに資料を仕舞った。彼女は相変わらずマウスをクリックしながらモニターの画面を見つめていた。彼女の瞳にモニターの青い光が反射して輝いて見えた。不機嫌そうな小さな唇がきつく閉じられていた。
「どんどん…」彼女が何かを呟いた。
「どんどん、遠くに行っちゃうんだね」
一瞬、彼女と眼が合った。しかし、私は慌てて視線を逸らした。
「じゃあ、お先に」聞こえなかったフリをした。
「お疲れ様でした」彼女は何事も無かったかのようにモニターを見つめていた。
彼女を残して、私はオフィスを後にした。
木枯らしに、赤茶色の枯葉をむしられた、桜の梢が揺れていた。
駐車場のコンクリートの上に、干からびたコガネムシの亡骸が、転がっていた。
「ほら、言わんこっちゃ無い」
隣の若者は3杯目のアブサンをグラス半分ほど残して、カウンターに突っ伏してしまった。
深夜0時を少し回ったところだ。店は4時まで開いている。
「すこし、寝かせてやったら」
「こいつ、何かあったんだな」
「あったんだろうね。上着、掛けてやったら?」
「寒いですか?」
「少し、冷えてきたね」
「すみません、気がつかなくて。窓、閉めますね」
「いいよ、そのままで。少し酔って、顔が火照ってきたから、むしろ心地いい」
「そうですか」
「俺も、もらおうかな。アブサン」
「えっ。大丈夫ですか?この酒、かなり強いですよ」
「知ってるよ」
私は隣で酔いつぶれている若者を横目で見た。若者は苦しそうな寝息を立てている。
「俺は強いんだ。これ位じゃつぶれないよ。ストレートで」
「わかりました」
やがてカウンターに薄緑色の液体が満たされたショットグラスが置かれた。
「アブサンです」
私はグラスを手に取り、アブサンの香りを嗅いだ。
以前、好きだった女の匂いに、よく似ていた。
気が強く、化粧っ気が無い、体の小さな、アーモンド型のキラキラした目をした、
素敵な女だった。
作品名:午前0時の悪魔の酒 作家名:Takeo Kawai