変身
わたしは日ざしが苦手で、車に乗るときはいつも後部座席にすわっている。
そのときも母の車の後部座席にすわっていた。わたしはひとりで出かけることがあまりできないので、よく母の運転する車に乗って出掛けた。
うえへひっぱる――そのレバーにはそう書かれていた。
いつも乗っている座席に見慣れない血のような真っ赤なレバー。見落としていたのだろうか? いや、そんなはずはない。いままで乗ったときにはなかった。
母はいつも通り運転に集中していて、わたしのようすに気付いていない。わたしはためらわなかった。というか、椅子が動くぐらいだろうと思った。
果たして……。
なにも起こらなかった。
いつも通りくるまはわたしと母を乗せて走っていたし、椅子はぴくりとも動かなかった。
「そんなもんだ」とわたしは一抹の期待をなかったことにし、前を向く。
手を伸ばし、足を伸ばす。
と、そのとき。
「あ?」
座席が勢いよく縦に回転し、わたしは水の中へ放り出されていた。
それは真っ黒な液体だった。わたしはその液体の中に浮かんでいた。真っ白な丘がまわりをとりかこんでいる。
体をうごかしてみる。真っ黒な液体にまぎれるように黒く、細いたくさんのうでが動く。
わたしは虫になっていた。しかし、わたしは不思議と驚かなかった。
わたしのちいさくまるまったこころには、ちいさなからだの方が合っている気がしていた。
わたしはちいさく、ほそい、たくさんのうでを一生懸命にうごかし、なんとか白い丘にたどりついた。
それは真っ黒な、大きな池だった。そのまわりを、独特の白い光沢を持つ丘がとりかこんでいる。
わたしはからだが乾くのをしばらく待った。濡れたままではうごくのにおもくていけない。
身体が乾くのを待っている間、自分がどこにいるのかを考えた。不気味なほど真っ黒な液体。それと対照的でテラテラと輝く真っ白な丘。身体にまとわりついた黒い液体を少し舐めてみる。
「苦っ」
ここでやっとわたしは気付く。この黒い液体はコーヒーだ。とすると、なるほど。この白い丘はコーヒーカップの縁だったわけだ。つまりこういうことだ。わたしは一匹の虫になり、だれかの家のリビングでお茶していると。
そういえばお腹がすいた。何か食べ物はないだろうか。コーヒーカップの縁を周りながら周りを見渡すと、やはりあった。にが~いコーヒーには付きもの。砂糖だ。わたしはカップの反り返った部分だって何のその。カップの下までたくさんの足を動かして駆け下りる。
いや~しかしその砂糖のうまいことうまいこと。自分が虫になっているからだろうか。とんでもなく甘く、おいしく感じるのだった。
お腹がいっぱいになり、わたしはまぶたが重くなるのを感じる。そのまま意識が遠のいていった。
目が覚めると、わたしはまた違う生き物になっていた。
形は人のようだが、体が碧く、透き通っている。髪も碧く、長い。腰の辺りまであった。
わたしはその身体を、美しい、と思った。
周りを見ると、真っ白な世界だった。空も、地面も、真っ白で、空と地面の区別がつかない。
その真っ白な空間の中を、わたしと同じ碧く透き通った人々が縦横無尽に歩いている。しばらく見ていると、人々はデタラメに歩いているわけではないことがわかる。まるで太陽の周りを回る惑星のように、人々は決まった道筋を歩き続けているのだ。そしてその複雑な軌道の絡み合う様はやはり、ひたすらに、うつくしいのだった。恐怖を覚えたほどだった。それも抗いがたい悪夢を見ているような、心の奥底に隠していたもっとも見たくないものを見ているような。そんな、恐怖。
わたしは走り出していた。どこへ? わからない。真っ白な世界を、ときおり碧い人々にぶつかりながら。とにかくこの美し過ぎる世界から逃げ出さなければならないと思った。
その後、わたしはいくつもの世界を渡った。あるときは掃除機だらけの世界だった。そこではわたしも掃除機だった。
そうしていくつもの世界を渡り、その度にわたしの身体もころころと変わったが、だんだんとわたしの身体が球に近づいていくのに気付いた。
そしてある世界へたどり着いたとき、わたしは球に果てしなく近い、楕円形だった。真っ黒な世界でただ一人、ぽつんとあるわたし。わたしの身体は、美しい青色だった。
しばらくすると、わたしは、わたしの中に生命が誕生したのを感じた。
それは本当に小さく、わたしに守られていなければ一瞬で消えて無くなってしまうような儚い存在だった。
わたしはその小さな命を抱いて、ふうと息を吐いた。