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 というところではなかったかと。これは人間である、ですとか、彼女は聖マリアで彼女は聖アンナで彼は神の子イエスであり彼は幼児聖ヨハネである、というような、他人に聞いたことを拠り所とする認識、定義をすることなく、自分自身で見たまま、ただ単に自分に何がしかの感得を引き起こしたところの自然のある形、それは芸術的伝統において美と呼ばれているものでしょうけれども、それを自己に、次いで画布なり紙なりに写し取ったというに過ぎないのではないのでしょうか。その自然の形-美-が何であるのかと恣意的に定義したり換言したりすることは保留してです。
 ところでこの絵は、今日パリのルーヴル美術館にあります、『聖アンナと聖母子』の習作であることは確かだと申し上げてよいでしょう。『聖アンナと聖母子』は、フランス王ルイ12世に依頼されたものとも、フィレンツェの教会に依頼されたものとも言われますが、真相はわかっておりません。とはいえこの習作もまた、依頼内容に応じたものとして描かれたでしょう。つまりキリスト教徒が宗教画として見られるように、であります。しかし一方でレオナルドは、見てきましたように、自分が自分の目で見た自然から、自分の知性とか感性とかいうようなもの、つくづく思いますにそれはほとんど神秘ですが、それによって捉えた美を、そのまま紙に写し取ったのではないでしょうか。それは換言しますと純粋に審美的芸術ということになるでしょうけれども、それは美であると換言する以前には自然のある形というだけです。実は今日わたくしがレオナルドの絵の中からこれを選びましたのは、これが習作であることによって注文主の依頼に合わせた度合いが少ないために、このようなレオナルドの真の創作態度がよりそのままに表れているのではないかと、この絵自体からわたくしが感じたためであります。
 それでこのようなレオナルドの自然主義的観点、自然主義的思惟方法による芸術創作は、必然的に、独創性へと帰結します。と言いますのは、ここまでわたくしたちが見てきました通り、自然主義とは端的に他人に聞いて得た認識を排除して、自ら経験して認識したことを拠り所とする方法だからです。この場合自然とは認識される対象であると同時に、注意深く観察考察するところの認識主体、思惟主体、レオナルドでもあるのです。他方排除されるのは、ありのままの自然ならぬ、レオナルド自身の思い込み、妄想-それらはひっきょう他人に聞いた言辞からやってくるものですが、それら人工物、換言しますと超自然であります。ですから自然主義的観点によって見るとは、すなわち独自の観点で見るということと同値です。この独自の観点による認識に基づく独創的芸術、これこそがレオナルドの自然主義芸術でありましょう。
 さて、レオナルドにおいてはだいたいこのような通りだったとしまして、わたくしたちにおいてはどうでしょう。この場合わたくしたちは自分自身の観点、思惟方法という問題に取り組まねばなりません。