みんなの人生の果実をみんなで食べよう
「それは5が素数であることが真理だからだ」とおっしゃる方がおられるかもしれません。そう換言できるのかもしれません。しかしこの換言はちょっと乱暴にわたくしには思えます。抽象的です。こうしてわたくしたち自身で実際に調べてみることでわたくしたちにわかるのは、わたくしたち自身が5はどうやら素数らしいと感じるということと、それは各人がそれぞれに自分自身で、独自に検証して得た認識であるにも関わらず、各人においてたいへん似通ったものとなるようだということだけです。これは具体的には、どういう事情で起こる事象なのでしょうか。
ここからはわたくしの個人的自然哲学的思惟です。わたくしが思いますに、このような数学的合意、レオナルドの絵画を題材にわたくしたちが見てきましたところの、自然主義的独創的芸術における合意は、数学的対象-数-やレオナルドの絵画に描かれているもの-四人の人間とその位置-そしてレオナルドやわたくしたち自身が、すべて自然という一元であることに拠って起こる事象なのではないでしょうか。補足しますと、レオナルドが用いたチョークや紙もまた自然であります。
先ほどわたくしたちは、ひとつの数学的検証を行いました。しかしこれはどのようなわけで可能となったのでしょうか。思いますに、わたくしたちは自分自身が自然であるために、自分自身の中にある自然の形を利用して、対象-数-を把握し、積み上げたり、照合したりしているのではないでしょうか。これは端的に論理的思考の構造の自然主義的解明ということになるかと思います。レオナルドの絵画を自然主義的観点によって見たわたくしたちにおいても、数学的検証時と同じような、数学的論理的思惟方法、すなわち自然主義的思惟方法でありますが、この自らの中にある自然の形や動きによる照合という作業によって、何がしか-数学においては5=素数、レオナルドの絵においては美-を感得したという事象なのではないでしょうか。
こういう構造なのでしたら、すべてはひとつの自然ですから、各々が同じ性質を持ち、同じ法則の元にありますから、各人が独創的に創造した理論であれ芸術的美であれ、各人間で合意が可能となっても、それは神秘的と申し上げたいほどの有様ですけれども、しかし不思議ではありません。むしろ必然です。皆さん、以上が、わたくしが考えますところの、自然主義的観点、自然主義的思惟方法がわたくしたちに引き起こす効果のあらましでございます。
実はレオナルドの手記に、次のような言辞がございます。
「数学的科学のひとつも適応されえないところには、もしくはその数学と結合されないものには、いかなる確実性もない」
「数学者でない者には、私の原理は読めない」
ここにわたくしは、レオナルドが生涯をかけて取り組んだ芸術の自然主義的独創性と、それが備えるところの合意可能性の本質を見るのですが、わたくしたちもまたレオナルドと同様の自然だとしますと、それは一人レオナルドの問題ではなくして、わたくしたち自身が生涯をかけて取り組むに値する、わたくしたちの生と公共社会についての普遍的問題でもあるのではないかと感ずるのであります。
作品名:みんなの人生の果実をみんなで食べよう 作家名:RamaneyyaAsu