憎きアショーカ王
憎きアショーカ王
私が言ったことではなく、私が言おうとしていることに耳を傾けなさい(リチャード・P・ファインマン)(1)
俺がバーラット(2)にやって来たのは、たったひとつの目的のためだ。
タクシャシラー(3)では本懐を遂げることができなかった。麻の原(4)に覆われた寺の遺構を見つけるまではよかったが、麻をかきわけ三日かけてあちこち掘り返しても、俺が求めるものは現れなかった。ただ体中が麻の油にまみれただけだ。古来ガンダーラ(5)と呼ばれたこの土地は--今はパキスタンなどというが--マガダ(6)王アショーカ(7)が作った大王国の辺境にあたり、アショーカ王の息子(8)が派遣されて治めていたという。アショーカ王の石柱、摩崖碑文(9)は、なにがしかの理由で--バラタ族(10)でない者、異民族が多かったかららしいのだが--辺境地域に多くあったというが、タクシャシラーでは石柱碑文がひとつ見つかっている(11)のみだ。王国の辺境にあり王の一門衆が治めたこの土地には、石柱なり摩崖碑文なりが多く作られたに違いないと俺は考えた。それがほとんど見つかっていないのは、ガンダーラ人にとっては異民族で征服者である男が作ったものなど、探しもしないか、すでに遠い昔にすっかり壊してしまったかのいずれかに違いないと。寺の遺構を掘っていて黒く焼け焦げた石片ばかりが出てくるのを見て、どうやら後者が真実だと俺は結論した。愚かな連中だ。それがガンダーラ人であろうとエフタル人(12)であろうとも。残しておけば、奴の罪を示せるものを。
タクシャシラーからバスに乗り、パンジャブ平原(13)に出た。ラホールの西の町ワガでバスを降り、国境(14)を越えた。ライフルで武装したインド側の兵士たちが荷物を検査している。俺のリュックに突き刺さったシャベルを見て、兵士はいくぶん戸惑っていたが、考古学の調査だと告げると、彼は謎が解けたというように無言でうなづいた。
インド側の町アタリでまたバスに乗る。バスは、その昔アレクサンドロス(15)のマケドニア軍が立ち往生したというビアス川(16)に沿う道を走り、川を遡っている。ビアスの水は奔馬のように猛り狂っている。二千三百年前から、この猛々しい水流は変わっていないのだろう、マケドニア人たちが家に帰りたくなるのもうなづけた。
ビアスが流れてくる東北、今はヒマチャル・プラデッシュ(17)と呼ばれている辺りの山々が連なっている。遠く、山頂に雪を頂いて白くかすむ山々を眺めて、俺は考える。アショーカ王だけは許してはおけぬと。
アショーカ王の祖父チャンドラグプタ(18)が、かつてアレクサンドロスの将軍だったセレウコス(19)を破ったとき、セレウコスの娘と戦象とを交換して、その娘はチャンドラグプタの息子のビンドゥサーラ(20)と結婚したという。アショーカはビンドゥサーラの息子だが、そのセレウコスの娘との子ではなく、ビンドゥサーラの理容師だったバラモンの娘との子だという。
兄弟たちとの後継者戦争に勝ってマガダの王位を継いだアショーカは、マガダの宿敵カリンガ(21)との戦いにも勝って天下に面目を施した。ここまではまあいい、俺の知ったことではない。彼は武人(22)の家に生まれて、本分を果たしたというだけのことだろう。
さてカリンガ戦争が自国にも敵国にも多大な犠牲を生んだことで、彼はバガヴァン(23)の教えに共感するようになった。これもまあわからぬことではない。それに王の地位を投げ出してビック(24)になったのは他ならぬバガヴァンその人なのだから、アショーカがすべてを放擲してビックになったのなら、立派な人であるととこしえに尊敬されたとしてもなんら不思議なことはない。
しかし彼は武人であることをやめなかった。ビックガティカ(25)になっただけで、ある期間ののちには、王に戻ってしまった。スリランカやタイなどで在家の者が数ヶ月だけ出家する、ビックガティカになる慣習は、アショーカ王に始まるという。もっとも、彼の息子のひとり(26)はビックになって、これらの国にバガヴァンの教えを残したのだが。
ところでアショーカ王の時代、バガヴァンが死んでから二百年ばかり経っていた(27)のだが、サンガ(28)はすでに一枚岩ではなくなっていた。長老部(29)と大衆部(30)への分裂が進行しており、両部派内においてすらも、ビック同士が見解を戦わせるような状態だったらしい。王国がせっかく広大になったのだから、その全土にバガヴァンの教えを広めたいと考えたものか、アショーカ王はこの問題を解決しようとした。見解の相違は置いておいて、ともかく和合するようにとサンガに指図をした(31)らしい。つまりバガヴァンの教えがなんであれ、とにかく我らはバガヴァンの弟子であると、まったく強引に決めてしまったのだ。バガヴァンの言葉であると語って(32)自らの勝手な見解を述べる連中は、ここに始まるのである。
思えば、例えばアッタカヴァッガ(33)がある。バガヴァンが死んですぐあとからビックの間で歌われるようになったのだろうこの詩群は、スッタニパータ(34)に含まれて現在も用いられているが--サンガだけでなくスリランカの民衆の諸行事や政治家の演説などにおいてもだ--これが往時になかったはずがない。してみれば、これほど明快で鮮烈な詩がすでにあるのだから、それは自らの見解を開陳する者もいただろうけれども、いずれ淘汰されたに違いないのだ。なにしろアッタカヴァッガは見解こそが苦しみの原因だと歌う(35)のだから。
マガダ王アショーカはまったく余計なことをしてくれたのだ。おそらく彼は自分の国の遠祖にあたるビンビサーラ(36)やアジャータサットゥ(37)がバガヴァンに帰依していたことにならい、またこの遠祖以上に偉大な王としてとこしえに伝えられることを欲して、このような世話を焼き、そして彼の望みは果たされた。彼が作り理念を刻んだ石柱、摩崖碑文、ストゥーパ(38)は今も多く残り、バーラットの最も偉大な王としての名声を二千年以上保ち続けている(39)。しかしこの彼の巨大な名声は、ビックが見解を持つことを認めた碑文がまだ見つかっていないことで保たれているのだ。サンガを分かつことを禁ずる碑文は三箇所で見つかっている(40)のだが、そこにもビックが見解を持つことを承認するようなくだりはないのだ。
作品名:憎きアショーカ王 作家名:RamaneyyaAsu