Bhikkhugatika
第三のチンプ
人間なる第三のチンプ。彼は、自分がここにいるとひとりで勝手に思い込んでいる。他人ばかり見て自分を見ないので、この思い込みが思い込みであることに気づかない。労苦を嫌うので、わからなくても探究しない。ゆえに観点や行為の原理を持つことができず、生命の衝動に任せて、自分にこだわる自分に任せて、世間に暴力を撒き散らす。聞かれてもいないのに自分のこだわる見解を開陳して称賛を要求しては非難され、頼まれもしていないのに自分の顕示欲を満たすことだけに役立つ訓戒を垂れて感謝を要求しては嫌悪される。ひとりで怒って報復するのだが、報復されて悶える。黙殺されると泣く。偽善についてひとりで盛んにわめくが、善については語ることができない。これが善であると感得したものを持たぬからである。他人を偽善者であると勝手に烙印するが、実は偽善とは何であるかについてすら判然としていない。頼まれてもいないのに恣意的に人を批評しては人に勝手に値札をつけて回り、そのくせ自分が批評されると怒る。他人のあら探しばかりしているが、自分についてはごまかす。自分の価値観に適合しないものを探してうろつき、それを発見すると駆けつけて否定しひとりで相手に勝った気になる。聞かれてもいないのに自分は努力していると言いふらすが、その実他人の努力の成果で着飾っているだけである。良識あるふりをしているが、頭の中は常に他人を出し抜く謀略で一杯だ。相手が自分の欲望を満たしてくれるかどうか知りたくてたまらない。そうでないことがわかるとひとりで機嫌を損ねなんとか侮辱してやろうとひとりで悶々と考え込む。不幸を嘆くが、不幸の原因を勝手に他人に結びつけて勝手に報復を企む。真理を求めるが、自らに尋ねない。他人に尋ねるので、わからない。生まれつき傲慢なので、人間について否定的なことが書いてあるのを読むと、自分が人間であることを忘れてしまい、他人の中からそれに適合する者を探す。見つけると、その他人たちにどんな事件が起こったのかと物見するが、自分の中で起こっている事件は直視しない。死に直面してようやく自分がしてきたことを知るが、自分が滅びることに生まれて初めて気づき、悔いる。
作品名:Bhikkhugatika 作家名:RamaneyyaAsu