女郎蜘蛛の末路・蜘蛛捕り編(前)
縁の黒い眼鏡を彼は、手についた橙の絵の具が付いてしまわないように、ちょうど静脈のあたりでぎこちなく上げた。
「あ、ええ……まあ」
私が同じようにぎこちなく答えると、白衣姿の美術講師である彼は何かを口の中で反芻させてから、他のキャンバスへと移動していった。
キャンバスに描かれた端整な男と、醜く広がる大木の枝。自分でもよく分からないのだけれど、大木は紫を基調とした。背景をできるだけカラフルにしようとした結果だった。
色鮮やかな大学の四年間は終わり、今は美術院生として大学の延長上を満喫している。正直今までの四年と何ら変わりはないんだ。
普通以外のなにものでもない生活の中、心の支えは普通じゃないけれど。
彼はいつだって、白いキャンバスの上を優雅に踊る、私の心も一緒に踊る。
キャンバスを抱えてアトリエから自宅へ帰る途中、彼に電話を掛けようと思った。まだ絵は完成してはいないものの、少しでも長く彼と一緒に居たかった。
「よしっ」
携帯を取り出して、コール。彼から貰ったキーホルダーが揺れる。
四つめ。
『はい、どした?』
「も、しもし。今大丈夫?」
『あー、うん。まあ』
曖昧な返事、電話のバックにはシックなジャズサウンドと女の声。
「……呑みに、行ってるの?」
『ああ。女友達とちょっとな』
突如、私の中の黒い塊が、鎌首をもたげて攻撃態勢に入ったのが分かった。
「ふうん……仲、いいの?」
『馬鹿、お前ほどじゃないよ』
薄く笑った声で、静かに彼が言って。それだけで私は、満足してしまった。
結局何も言わずに切ってしまった、その女は誰とすら訊けなかった。
彼の声は、やけにうわずっていた。
それから数日して、
「あれ、あんたもしかして市屋那華子(いちやなかこ)ちゃん?」
街中で、ふと声を掛けられた。不審がって後ろを振り返ると、茶髪ショートの女が軽く手を振ってこちらに近づいてくる。
「どちらさまですか」
無意識、バリアを張る。
「やーね、怪しいものじゃないってば。垣野花桜(かきのはなさくら)です。苺春から話は聞いてるわよ、すっごく絵が上手なんですってね」
黒スーツにネクタイ、長身痩躯で猫っぽい瞳をもつ美女。悪い印象を持つ人はいないだろう。
ただ、ひとつだけ。
最中苺春(もなかまいはる)。私だけのモデルである彼の名前を出したということは、こいつは苺春の彼女で、――私の敵だということ。
なんでも医者らしく、アメリカへ渡っていて半年前に戻ってきたとか。
「ちょっとお茶しましょ、こうして会えたのもなにかの縁よ」
そうして、近所のスターバックスに寄った。
「へぇ、学生さん?」
興味なさそうに、彼女は。
「いえ、……院生です」
「ふうん、よくわかんないんだけどさ」
「そう、ですか」
彼女は私の髪をちらと見やって続ける。
「髪の色、綺麗ね」
「……ただの黒ですよ?」
少し、目が開く。
「淡い紫のような、そんな色に見えるわよ」
それは確かで、私の髪はいま薄い青紫色に染められている。
いや、《られている》という表現はどうあっても受動であって、だから私の意図した意味は有していない。
染めたのだ、そうしなければならない理由で。
ただ今ここで目の前の他人においそれと話せる内容でもないし、また話したくもない。
血迷った末の選択だったし、なにより世間が罪雪ぎを許さない。
彼にしてやれることは、お墓になにかを供えてやることくらいか。
紫というのは、適当でもなんでもなく決めた。
古来より《黄泉》《死者》というような意味を込めて使われる紫色は、しかし頻繁に目にする。美大生から言わせれば死者への冒涜である(ただし私はそういう意味で嫌悪を抱いているのではなくて、あくまで色の意味的要素からの不可解である)。
まあそんなことを、話す義理もない。
「ああ、作品を描いてるとどうしてもその色になっちゃうんです」
「へぇえ、大変ね」
……何なんだこの女は。毒薬でも周りに撒き散らさんばかりの、それは海のような広がりで。
直感で、やばいと思った。この女、やばい。
「モデルねぇ……あいつとは長いの」
と、いきなり。ばらばらの点だった敵意が、一瞬にして線に変わる。
私を絡め取る、蜘蛛の糸に。
「ええ、まあ」
短く返すが、たぶん優越は隠せていない。
「……ずいぶんご執心みたいね」
その言葉がはたしてどんな目的をもって発せられたかは本当のところ分かるのは、垣野花本人でしかないのだけれど。
要するに釘刺しだろうな、くらいは分かっていた。
「? 何に対してですか?」
と、こんな軽口をやすやすと言える人間だったのか私はと思う。
いや、ただ嫉妬に目が濁っているだけだ。平常心を取り戻せ。
私はポケットからそっとピルケースを取り出して、コーヒーと一緒に三錠、流しこんだ。
「なにそれ、麻薬?」
「そんなわけないですよ、ただの風邪薬です」
精神に効くほうの、ね。
「ふうん、今飲む意味ってなにかしら」
「さてね」
冷房の利いた店内。これ以上この空気を冷やす必要はないというのに。
さながら蜘蛛が糸を張るように、二人は思案していた。
「ぶっちゃけちゃうとね、」
「はい」
「……いや、やっぱりいいわ」
「はい?」
なにかを考えあぐねて、彼女は言葉を飲み込んだのだった。ただ、それだけの事実が分かったところでなにがどうなるわけでもない。
潮時かな。
「あの、まだ描き終わってない絵があるので帰ってもいいですか」
「あ、うん。……なんかごめんなさいね」
「いえ、また誘ってください」
「ええ、……そうだ、アドレス交換しましょ。その方がお互い楽じゃない」
何が楽なのだろう。この女、もしかして何も考えていないんじゃないか?
「……いいですけど」
そうして二匹の蜘蛛は、繋がった。
*
帰って持ち帰ってあったキャンバスに色を落としていると苺春から、
『ごめん、また今度モデルしてやるから』
絵文字無しで、メールが送られてきて。黒いけだものは雄叫びをあげる。
「……っ、あんたは――!」
がむしゃらに携帯の電池パックを抜いて、本体と一緒にベッドに叩きつける。
虚無しか残っては、いなかった。
作品名:女郎蜘蛛の末路・蜘蛛捕り編(前) 作家名:ダメイジェン