ネヴァーランド 137
なぜこの点について僕はスローラーナーなのか。その時その場の空気というより、諸々の空気が前提としている、帝国全体に濃厚に澱んだ、基底となる空気に、違和感を感じているからだろう。テレパシーとしか言いようのない問答無用のその手段にも納得がいっていないからだろう。自分自身にまといついて離れない、どうも変だなおかしいなあという批判性向がじゃまをしている。だからノリが悪いのだ。社会に対する批判と社会への適応とを、分離して並立進行させることはできないのかな? できないでいる不甲斐なさ、既に父親であるくせに未熟なところ、クールでないところを思い、自信が口から逃げていくようなため息をつきつつ、モーゼに目を移す。
川原にどっかと胡坐をかいている。左腕の上腕を右手で抑え、寄り集まったクロードやボディガードたちに、指と指の間の負傷部分を見せつけている。白っ子もそばにいるが関心は示さない。
離してくれといくら訴えてもモ―ゼが聞かないのでヘレンが噛みついたのだ。
集ってくる者の数が段々増えてきて、モーゼの姿が見えなくなってしばらく経った。
モーゼが立ち上がった。周囲を掻き分け、右手で噛み跡を揉みながらいびきをかいて眠っている両生類に近づくと、その鼻の穴の間を左足で蹴った。それでも起きないので鼻面に乗り、閉じた右眼をまた蹴った。透明な瞬膜が眼球の上部の会合部からゆっくりと下がってきた。モーゼは川原に飛び降りると、なにやら怒鳴りながら両生類の下唇に相当する部分を足で押し下げようとした。戸惑う相手への何度かの暴力的な試みがあった。やっと口が開いて長大な舌がエスカレーターのように延び出てきた。モーゼは、舌の向こう側に座り込んで両生類に面と向かい、うってかわってねぎらいの言葉を投げかけると、こちら側に頭を倒して寝そべり、舌先に傷口を押し付けた。両生類は嫌がらずゆるゆると舌先を巻きかけたり伸ばしたりし、揺れるモーゼをうれしがらせているようだ。
静電気が走ったようなむず痒さを足の裏に感じた。かり、かり、訶、訶、訶、訶っ。間欠泉が吹き上がって、耳をつんざくほどにかき鳴った。十五名の生口全員が、恐怖の金切り声を挙げた。引っぱりあげられたように伸び切った姿勢をそろってとって上流へ顔を向けた途端、星空を背景にすっくと立った白い悪魔を意外な高みに見出して仰天し、たちまちその統一を崩してしまい、顔をしわくちゃにして目を閉じる者、背を向ける者、頭を抱えてしゃがみこむ者、口を開けたまま見とれる者へと、三、三、四、五、分裂した。
僕は、間欠泉の姿を見て、美しいと思うほどには慣れてきた。だが、蝉が一斉に鳴き止むのには、今まで気づかなかった。全天の星の瞬きが突然めまぐるしくなった。飛び立った蝉たちが、星の光をさえぎるからだ。川原のあちらこちらから何かが転がる乾いた音が聞こえる。蝉どうしが、空中でぶつかり合って、落ちてきたのだ。
さっきの噴出から今回のまでにかかった時間がかなり短いのが気になるな。
間欠泉の轟音がスターターになり、魔法から解かれたかのように、ざわめきが復活した。
クロードの先導により、行列が上流へと移動し始めた。ただし、『動物』は、ブラザーたちによって追い返されていく。『動物』たちの先頭に、実際に後ろ向きになってムーンウォークで進む浮舟の姿が見えた。舞踏に移行しかねない大きな動作の手話をまじえて演説中だ。酷使のはてに割れて掠れてしまった声が、かすかに聞こえる。
わかった? もう一度言うわよ! ちょっとぉ―、こっちを見なさい、ホンポーシャ!
ハットリもまた歩行を再開したが、川の縁まであと五歩ほどの地点で、黙ったままふいに右に逸れていった。僕は直進し、川の浅瀬に立ち入って待機する。
終にびっこの恐竜が頭を振りふり泣きながら正面にやってきた。茶色の皮膚の下のあばら骨が露わだ。左右についているブラザーが、しゅっ、しゅっ、と大声で威嚇しながら、自分達の身長の三倍ほどもある長い蔦で、骨盤の浮き出た尻をたたく。雌であるのがわかった。
親と離ればなれになり、常食していた餌を探せず、痩せ衰えたのだろう。ハットリのように、体中に擦過傷が走り、泥や落ち葉がついている。崖から転落したのだろう。左脚が切れているわけはなんだろう。湖の岸辺か浅瀬で水を飲んでいたところを、ワニか淡水鮫に襲われたのか。ジャングルで大型肉食竜に襲われたのか。脚を食わせておいて逃げたのだろうか。……両生類が吐いた溶けかけの片脚を思い出した。
屠殺されるはずの、具体的な不幸である少女恐竜が通り過ぎた。長幅の絵巻物がやっと巻き取られた。あとに残った者は、命じられればなんでもする両生類が突き出した舌を敷布団にして、左肩を下に寝そべっているモーゼだけだった。崖の方に伸ばしていた下半身の向きを九十度変え、左脚は曲げているが右脚は伸ばして両生類の鼻面に乗せている。右手が、左前腕の半ばを、庇うようにつかんでいる。見る者の目が自然に左手首へと誘われるように企んだ、モーゼ得意の格好だ。その手首には腕時計のように、近代科学技術の象徴であるニンテンドーが巻きつけてある。両側から押し寄せる皮下脂肪に埋もれかけている。バンドの長さは僕の場合の1・5倍以上で、これ以上延ばせない。今にも千切れそうで見るたびにどうにかしてやりたくなる。
モーゼは、女に噛みつかれて悲鳴を上げたばかりとはとても思えない、悠揚迫らざる、一片の滑稽も交えない、いかにもこ―て―然としたポ―ズをとっている。
顔は肩の上に垂らさず、鎌首のように斜めに持ち上げている。ヘビが、とっくに獲物を見つけておきながらいざ面と向かうと、おや、そこにいたのかい、と語りかける振りをするように。モーゼは、こころなしか、こちらに向かって微笑みかけているように見える。
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作品名:ネヴァーランド 137 作家名:安西光彦