冬孵り
寒くなると、ふとした瞬間に心だけが昔へ戻ってしまったような錯覚に捕らわれることがある。身体の奥深くで何かが逆流して、現実と記憶の境を曖昧にしてしまう。今朝も私は泡立てていた歯ブラシを動かすのも忘れ、足の裏から伝わるその感覚に小さく全身を震わせた。
学生の頃、一度だけ友人にそんな感覚があるのだと話をしたことがある。
――カマキリみたいな人ね
私が話し終えると、彼女はそう呟いた。訊くと、冬にかえるからだそうだ。うまくない。
――あなたのこと、そう呼ぶことにする。
そんな言葉を私が丁重にお断りすると、彼女は表情を変えずに「そう」とだけ返した。
単純に虫があまり好きではなかったし、それに、彼らが孵るときに仮に前世やらを思い出すとして、それが当時のテレビ番組や趣味や、ましてや恥ずかしくなるような考えや見栄を張った行動だというのは酷く残念なことに思えたからだった。
口内の違和感に我に返った私は、慌てて濯ぎ、顔を洗って洗面所を出た。化粧をしてしっかり仕度を終えると、飼い猫に小さく「いってきます」と告げて玄関へと向かう。いつにも増して冷たそうな鉄の扉を前に躊躇する自分を何とか動かし、外へ踏み出した。
冷たい空気が一気に身体を取り囲む。
(……冬篭りの方がしたいな)
近い冬の気配に、私はマフラーへ顔を少し埋めた。
彼女はそろそろ、カマキリが自然に孵るのは春だと知っただろうか。