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アインシュタイン・ハイツ 102号室

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Scene.2-3 アインシュタイン・ハイツの幽霊 3




 俺の幼なじみである悠子の親父さんは合気道の達人で、家の裏手に小さいが代々続く立派な道場を持っていた。隣家のよしみで俺も七歳の時からその道場に通っており、その所為か体だけは丈夫で、子供の頃から風邪ひとつ引いたことがない。
 なので、人に支えられないと歩けないほどの体調の悪さと言うものを、俺はその時生まれて初めて経験した。
 寝不足と貧血と関節炎がいっしょくたに起こったら、きっとこんな感じなのかもしれない。布団にくるまっているのに寒くて寒くて仕方がなく、体中がズキズキと痛んで、始終ぞくぞくと悪寒がした。なにもしていないのに見上げる天井がぐらぐら揺れていて、見慣れた部屋中がピカソの抽象画のように歪んで見えた。
「ええ、熱は今のところ三十九度行くかいかないかぐらいで……あ、薬はミドリさんが」
 ベッドに押し込まれ、どこからか持ってこられた氷枕が頭に当てられ、為す術もなくうつらうつらとしていた頭の中に、意味のある言葉の連続が不意に滑り込んできたので目を開けると、目の前に座卓の前で正座をしている志摩さんの、赤いTシャツの背中があった。
「熱自体は高いんですが、インフルエンザって季節でもないから、たぶんただの風邪だとは思うんですけど……あ、はい、わかりました。心配でしょうけど、任しといてくださいよ。え、や、大丈夫ですよ。困ったときはお互い様って言うじゃないスか……はい、そんじゃ。お仕事がんばってくださいね」
 結構長い間うつらうつらとしていたようで、なかなか定まらない視線を励まして窓の方に向けると、カーテンの向こう側が闇色に染まっており、今がもう太陽の出ている時間ではないことが知れた。
 携帯電話で誰かと……たぶん叔父と話をしていたのだろう。電話を切った志摩さんの向かいにはミドリさんが居て、あぐらの膝の上でくつろぐアインさんをゆっくりした手つきで撫でている。
「――……それで、八坂さんは」
「あ、はい。八坂さん、今栃木にいるみたいですよ。んで、なんか随分辺鄙な所に居るみたいで、飛んで帰りたいのは山々なんだけど、車もないしタクシー呼んでも来ないから、仕事が終わる明後日にしか帰れないって……迷惑かけるけどそれまでよろしくお願いします、だそうです」
「それは大変ですね……で、トチギ、とは日本のどの辺りでしょう。キューシューの方でしたっけ?」
「いやいやいや、ミドリさん、いくら何でもそんな……栃木は関東圏内ですよ。東京の、えーと、右上あたりだったかな?それにしても車もタクシーもないところって、どんな僻地なんだろ。ほんと、どんな仕事してんだろうなぁ、八坂さん」
 俺が寝ていると思っている所為だろう。二人は小声でそんな会話をしていた。
「山奥で道路でも作ってんですかね?」と志摩さんが不思議そうに尋ねれば、ミドリさんは膝の上のアインさんを撫でる手をふと止めて志摩さんを見る。
「ご存知ではないですか」
「俺は知りませんけど、ミドリさん知ってるんスか?」
「ええ、最近よく耳にしますから。八坂さんは――……」
 呟いたミドリさんが、ぱちくりと瞬きをした。
 どうやらミドリさんは、叔父が何で生計を立てているのかを知っているらしい。考えてみればミドリさんはハイツの管理人なのだから、叔父の大体のパーソナルデータなんかは書類として見ているワケで、知らないという方がおかしな話ではあるのだ。
 そうして、最初からミドリさんに聞けばよかった、なんて吐き出した納得のため息が二人の耳に届いた所為だろう。
 言いかけた言葉を中断したミドリさんが首を伸ばして俺の方を伺うのと、振り返った志摩さんが安堵の表情を顔に浮かべて笑ったのとが、ほぼ同時だった。
「あ、起きた?カズキくん、大丈夫?」
「はぁ……まぁ、なんとか大丈夫、だと思います」
 ミドリさんの台詞を最後まで聞きたかった、というのが本音だが、心配そうに問われてまさかそんなことは言えない。実際は体の芯まで腐りそうなほどだるかったが、そこは病人のお決まりの台詞として俺がのろのろと頷くと、志摩さんは「それなら良いんだけどね」なんてニコニコと微笑みながら、ゆっくり俺の額に手を当てた。
「ああ、まだ熱高いなぁ。で、ちょっと起きれる?今、ミドリさんが薬を――……って、ミドリさん、それ何スか」
 志摩さんが振り返りながら言う視線の先を俺も見れば、ちょうどミドリさんが銀色の魔法瓶を片手に立ち上がるところだった。そのままゆったりした足取りで寝ている俺の枕元まで歩んできて床に膝をついたミドリさんが、魔法瓶から厚手のマグカップに液体を注ぐのを見ていた志摩さんが尋ねると、ミドリさんは肩越しに志摩さんを振り返りながら少しだけ微笑んだ。
「珍しいものではありません。レモン果汁をお湯で割って、ハチミツを入れたものです」
「ああ、ハチミツレモンですかね?」
「はい。ケミカルな薬品よりは、胃に負担をかけないかと思って。僕の故郷では、風邪の時に薬の代わりに飲むものなのです」
「へー、そうなんですか。あ、でも日本でもそんなこと言ってたの、どっかで聞いたなぁ――……うわ、なんかめっちゃいい匂いする」
「後で一口飲んでみますか?……に、してもちょっとぬるくなってしまっていますから、温め直さなければ」
 マグカップに注がれた液体――……ハチミツレモンからは、花みたいな甘い、ものすごく良い匂いがした。魔法瓶を志摩さんに手渡して両手でマグカップを持ち、中身の温度を確かめたミドリさんは、「少し待っていてくださいね」と優しい口調で言って立ち上がり、部屋を出て行ってしまったので、入れ代わりで俺の枕元に膝をついた志摩さんが、苦笑いの顔で今の状況の説明をしてくれる。
「無断で悪いとは思ったんだけど、留守中のことを頼まれてる以上、こういう事態になったことを一応報告した方が良いと思って、カズキくんが寝てる間に八坂さんに電話したんだ。でも、八坂さん仕事で栃木のすごい山奥に居て、明後日までどうしても帰れないんだって。だから、俺もミドリさんもちょくちょく様子見に来るつもりだけどカズキくん、それで平気?」
「はい、もうぜんぜん……つか、なんかスンマセン、迷惑ばっかかけちゃって」
「勝手に連絡して、気分を悪くしていたらごめんね」と志摩さんはしきりと謝ってくれたが、志摩さんの立場としては叔父に連絡しないわけにはいかなかっただろうし、俺は別にそんなことで怒ったりはしない。むしろ情けないのは自分の方で、一人で平気なのに叔父さんは大袈裟だ、と思っていたくせにこの体たらくでは、恥ずかしくて右も左も向けやしない。
 なので、本当に申し訳なく思いながら俺がもごもごと呟くと、志摩さんはきょとんとした後で大きく笑った。
「何だぁ、カズキくん、そんなこと気にしてんのか」
 そのままぐしゃぐしゃっと俺の頭を撫でる。まるで子供にするみたいな仕草に、しばらく人からそんなことをされた覚えがない俺は思わず首を縮めてしまったが、悪い気分ではなかった。
「病人が気にしなくていいんだ、そんなことは。それより、八坂さんも死にそうなぐらい心配してたからさ。今はよく休んで、早く元気になってください」
「……はい」