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アインシュタイン・ハイツ 102号室

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「連絡しといてくれるってのは有り難いけど、「金持ちのマダムの囲われ者になってた」とかデマ流すのは勘弁してくれよな」
「うふふふ、中国マフィアの玩具になって香港に売り飛ばされたって言うのも考えたんだけど、どっちがいい?……ってのは冗談で、この状況でそんな不謹慎なデマを流したら、あたしが朔夜ちゃんに絞め殺されちゃう。ちゃんと事実を正しく報告しておくわよ、カズちゃんはしばらく見知らぬ叔父様のところでいじけてくるそうよ、ってね」
 不吉な響きを咎める暇もなく、受話器の向こうで悠子が柔らかく笑った途端、電話は切れた。
 悠子はたおやかな見かけとは裏腹なものすごく良い性格をしているから、俺の友人たちは俺の失踪(?)の理由について、悠子が今言ったようなことに、俺が想像もできないような尾ひれ背びれがついたものを聞かされるに違いない。
 俺がどんな理由で失踪したことになっているのか、家に戻って友人たちに聞くのがちょっと怖いな、と苦笑いしながら俺は携帯電話を放り投げ、ごろんと床の上に寝転がった。
 頭の上にある窓は換気のために開けていて、そこから眩しい春の陽の光が射し込んでいる。ハイツのどこかの部屋の窓が開いているのだろう。無愛想なラジオのアナウンサーが昼のニュースを読み上げる声が、穏やかに風に乗って流れてきて、その単調なリズムを聞いていると、なんだか妙に眠くなる。
 昼寝が趣味だ、とか言ってたのは確かドラえもんに出てくるのび太くんだったか。俺は昼寝をまったくしない子供だったので、のび太くんのその趣味だけは理解できなかったのだが、今なら彼と親友になれそうだ。
 傍の座卓の下に重ねてあった座布団を、一枚折り畳んで枕代わりに頭の下に押し込み、俺は欠伸をして目を閉じた。

■■■

 眠ったのは少しの間だったと思う。
 やんわりとした毛皮が、ひょいと寝ている俺の顔をまたいでいったので、俺は目を覚ました。
 視界に最初に広がったのは、なめらかに隆起する灰色の壁だった。瞬きして顔をしかめると、それはすぐに猫の形に輪郭を整え、細い光彩の青い目が俺の顔を覗きこむ。
 そのままざらざらの舌でざりっと鼻の頭を舐められてしまえば、もう間違えようがない。
「――……アインさん……お前、どっから入ってきたんだ」
 寝起きの声でそんなことを言って、そういや窓が開いていた、と思い出した。
 そうして寝返りを打って目をこすり、喉の奥からこみ上げてきた欠伸をかみ殺した俺が、枕元でまるで当然のような顔をしながら毛繕いを始めたアインさんの向こう側に何気なく視線をやった時のことだ。

「――……」

 寝ぼけた視線を向けた先。本棚や大量のCDで埋め尽くされた収納棚があるあたりに、見知らぬ人が一人、佇んでいた。
 背格好から推定する年齢は、俺と同じぐらいだろうか。濃い藍色のTシャツと太めのジーンズを履いていて、長さをそろえるもへったくれもなくばっさり断ち切られた印象の色素の薄い髪が、肩のあたりで揺れている。
 男にはあり得ない優しい肩の線の形や、腕や腰の細さから女だな、というのは分かったが、俺に背中を向けている所為で、顔は分からなかった。尤も、顔が見えたところでここらに叔父以外の知り合いも親戚もいない俺にとっては、その人の素性がどうあれ勿論見知らぬ人間なワケだが、そんな人がこの部屋でなにをしているのかと思えば、どうやら棚に並べてあるCDの背を指先でなぞりながら微かな鼻歌交じりに、何かを探している様子だ。
 口ずさむ旋律が、窓からの風に乗って流れてくる。それは不思議な歌だった。甘く掠れる低い声。砂浜に打ち寄せる波のような、遠くの砂漠を渡る風のような、今まで聞いたことのない響き。歌詞は聞き取れなかったが、日本語なのか、英語なのかの判断も付かないと言うことは、もっと別の、俺が知らない国の言葉なのか。
 それでも、例え言葉の意味が分からなくたって、それはとても綺麗な歌だった。俺が赤ん坊だった頃、母が歌ってくれる子守歌は、俺にこんな風に聞こえていたのかもしれない、と思わせるような、そんな気持ちのいい歌だった。
 こんな歌なら、いつまでだって聞いてたい。心底からそう思う。しかし、人が寝てる目の前でこんな鼻歌交じりに棚を物色するとは、彼女はなんて暢気な泥棒さんなのだろう。いや、逆に肝が据わってると言うべきなのか――……なんて、感心してる場合か、今は。

「ッ!!」

 次の瞬間、俺はがばっと全身の筋肉をバネにして起きあがった。
 同時に彼女――……人が昼寝をしている間に無断で部屋に入り込み、棚を物色していた明らかな不審人物の方に向き直れば、不審人物の履いていたジーンズの裾が、まるで夢の名残のようにドアの方に向かって消えたところだ。
 追いかけようとして勢い立ち上がれば、眠っていた所為か一瞬ぐらっと目眩がして床が揺れた。なんとか踏み堪えて、部屋とドアに続く小さな台所スペースとを隔てる壁を回り込み、大慌てで不審人物が消えたドアに向かったが、そこにはすでに人影はない。
 逃がしてなるものか、とドアノブをひねるのももどかしく、ほとんど蹴破る様にしてドアを開ければ、すぐ外はハイツの玄関に続く共同の廊下である。当然俺はほとんど駆け出す勢いで飛び出したのだが、出会い頭に歩いてきた人とぶつかってしまえば、逸る足も止めざるを得なかった。
「ちょっ!?カズキくん!?」
「うわ、ごめんなさいって、志摩さん!すんません、今女が逃げてきませんでしたか、こっち!」
 俺と自動車事故で言うところの側面衝突の形になってしまったのは、志摩さんだった。
「は?女?」
 ちょうど出かけようとして、部屋を出てきたばかりらしい。とっさに俺を抱き止める形になった志摩さんに謝る暇もあらばこそ、大慌てで部屋に不審な女がいたことを話すと、志摩さんは表情を微妙な形に歪めて瞬きをした。
「逃げてったって……俺、今からバイトなんでついさっき廊下に出た所なんですけど、八坂さんの部屋からはカズキくん以外、誰も出てきてませんよ」
「でも今、部屋に!」
「部屋に?」
 そんなワケがない。
 志摩さんの声に俺が悲鳴じみた言葉を返すと、志摩さんは首を傾げながら、「失礼します」と開けっ放しになってるドアから俺が今出てきたばかりの部屋――……102号室をのぞき込み、一通り中を見渡した後で、やはり首を傾げて俺を見た。
「誰も居ませんけど……あ、ミドリさん、ちょうどよかった。今、ハイツから誰か出て行きました?」
 がらがら、と玄関の引き戸が開く音がして、振り返れば折りよく管理人のミドリさんがハイツに入ってきた所だった。
 志摩さんの声に顔を上げたミドリさんは、手に外掃き用の竹箒とチリトリを持ったまま、メガネの奥の黒い目をきょとんとさせる。
「ハイツから、ですか?今のところ、僕は見てませんが」
 三十分ほど前から、レレレのおじさんよろしくハイツ前の道を掃除していたという。ミドリさんの言葉に、「ほらね?」と志摩さんが笑った。
 俺はただ呆然としてミドリさんと、志摩さんとを見比べた。二人が嘘を言ってるわけではない、と言うことは分かっていた。大体、俺なんかに嘘をついて何か得するわけじゃない以上、この二人が俺をだましてどうするというのだ。