相合傘
例えばそこに、緩やかに降りしきる雨と、傘一本と、そして恋人同士の二人がいたら、自ずとそれは起こるに違いない現象なのである。
少なくとも松崎彩華はそう信じている。
***
誰よりも整った襟足目掛けて右手を突き出し、細く硬い曲線を描く藍色の傘の柄をそのしわ一つない襟首に引っかける。「うぅっ」意図せず漏れ出る呻き声もどこか知的で鮮やかで素敵だ。先輩が美しいのは何も見た目だけの話ではないのだと思うたびに誇らしい気分がみぞおちの辺りで暴れ出そうとして、それを抑えようとすればするほど身体中余すところなく震えが伝染してしまう。彩華は口元に沸き上がる笑みを隠せないまま、手を引くと共に近付いてくるその大振りなわりに耳朶の小さな耳元で囁いてみせる。
「ゆずるせーんぱい、」
「なっ……まつざ、じゃなくて、彩華君、」
先輩が滑らかで形の良い頤をぎこちなく動かして答える。漸く先輩は彩華に気付いてくれた。先輩は意外とうっかりさんで、傘を引っ掛けるずっと前から彩華は先輩の後姿を舐めるように眺めていたのに全く気付かないし、付き合うと決まった日に下の名前で呼び合うと決めたのに、こうして時々間違えてしまうのだ。尤も完璧が過ぎても逆に魅力がなくなるし、これは天才に添えられたささやかな愛嬌なのだ。首筋を彩華の持つ傘の柄で固定されたまま、制服の上からでも辿れる背中の線が絶妙な角度だけブリッジして、先輩の睫毛の目立つ流し目が揺れる。やっぱり先輩はどんなポーズをとっていても美しいのである。
存分に見とれながら、彩華はこの学校一美しい人の恋人に足る笑みを心がけて、鏡の前で練習した大人っぽい仕草で首を傾げてみた。
「傘、持ってないんでしょう?」
「わかったわかったわかったわかったから兎に角離してくれたまえこれでは首がしまるしまるくるしいくるしいわかったわかったわかったからくるしい……」
この上なく嬉しいことに、先輩は口にせずとも彩華の言わんとしていることを理解していたらしい。いや、凡人とはつくりの違う先輩にはこんな常識くらい当然であった。さすが先輩だ。傘を捻って襟首から柄を抜くと、しなやかな動きを伴って先輩の姿勢が元に戻った。ふう、と漏れ出る悩ましげな溜息に空気に触れる肌という肌が落ち着きをなくす。
「はい、先輩、」
動悸を誤魔化すように傘を差し出すと、振り返った先輩が不思議そうな顔をした。気の抜けた表情はきりっと立ち上がる目尻が不意に和らいでどこか可愛らしさが滲む。けれど、どうしてそのような顔をするのだろう。こういうのは背の高い方――男が傘を持つものではないのだろうか。彩華と先輩では身長差がありすぎて、先輩の肩を濡らしてしまうに違いないのに。
「……は?」
「先輩が、差して下さるんじゃないですか?」
それとも、先輩ほど高貴な方ともなると、おいそれと自分では傘を持たないのだろうか。そういえば今日だって持っていない。もしかすれば、迎えのハイヤーが校門のすぐ外で待ちかまえでもしていて、黒のタキシードに身を固めた初老の執事がお坊ちゃまには雨ごときに指一本触れさせやしないと黒く広く分厚い傘を先輩の頭上に掲げようと待機しているのだろうか。
そうだとしたら――一緒に帰れない。
そう思った途端、傘を握り締める手の平が急に傘の柄の固さを強く感じて、彩華は思わず項垂れた。やはり先輩は彩華などとは別次元に存在しているのだ。いくら恋人の地位をほしいままにしていても、鏡の前でミリ単位まで角度を測って髪の流れ方を計算して大人っぽい仕草を練習しても、そもそもそんな努力をしなければいけない時点で先輩に遠く及ばないのだ。先ほどまで身体の内側で跳ね回っていた心がしゅうしゅうと音を立てて融けていく。先輩、先輩、ああ、先輩! 所詮彩華はそこらの惨めな小石のようなものですけれど、それでも、全てを包容する太陽の如き先輩の背中を見つめ続ける所存です。
先輩が目の前を黒猫に通られたような顔をして、それから一度その大きな瞳を瞼で覆った。つくづく睫毛の長さに嫉妬するばかりである。鼻から抜ける小さな呻きに続く悩ましげな溜息に全身のむず痒さを覚え、彩華は目を逸らす。
右手首が冷たくて少し柔らかい皮膚に包まれた。反応もできずに胸の前辺りまで引き上げられる手首を目で追うと、傘を持つ彩華の右手は先輩の両手の長い指に挟まれていた。節が目立って、白魚のような、というわけではないけれど、美しい先輩の美しい一部分である。そんなところと直に触れ合っているのかと思うだけで彩華は脳味噌が吹き飛びそうなほど興奮する。これはつまり、どういうことだろうか。いつもより顔と顔の距離が近い気がする。再び腹の内側が飛び跳ね始めた。先輩の唇がそっと開いて、美声がさらさらと零れ出る直前のその隙間から垣間見える歯並びの美しさ、白さ、全てを見逃す筈がない。
「彩華君、」
「せ、せんぱい、わ、わたし、」
「君は、」
形の良い鼻梁が迫ってきて、心臓が爆走する。ここは昇降口で生徒も先生もたくさん通っていて、外からも中からもよく見えて、それでするつもりなのだろうか。どうしよう。こういったときの作法を心得ていない。けれど先輩がするのなら、彩華は先輩の恋人なのだからそれに沿う行動をすべきである。既に先ほど先輩に届かないと自身を嘆いたことなど歴史から抹消され、彩華はとりあえずあらゆる文献において行われているからして正しいに違いないと思う行動に出た――今目に映る光景を名残惜しく思いながら瞼をそっと閉じた。
「傘の柄で人の襟首を引っ掛けるのは感心しないな。これは取り上げよう」
言葉を理解するより先に緊張のあまり震える指から傘がもぎ取られていた。握られていた肌がすうすうと寒い。慌てて目を開くと、先輩は昇降口を向いて彩華には背中を向けて不敵な笑みを浮かべていた。顔は見えなくても後姿で彩華には分かる。先輩は確かに不敵な笑みをその美しい顔に映している。
「さて、丁度傘を忘れていたことだし、僕はこれを差して帰ろうと思う」
言いつつ彩華の傘をがざりと開ける。藍色がぱっと広がり、先輩の輪郭がより際立っていく。呆気に取られていると先輩は肩越しに堪らない角度で振り向いて、彩華のためだけに笑った。
「ところで君は傘を持っていないようだが、入るかい?」
目線がきちんと合って、それだけで身体の奥が焼き焦がされる音が鼓膜に伝った。肺が一気に膨らんで受け止め切れない酸素が右往左往する。答えは床を蹴り出した右足が持っていた。優しい熱を以って傘の直径に納まる先輩は確かに彩華の恋人に違いなかった。頭上で弾かれる雫の音は彩華の身体中で弾けている幸福の爆発の音だ。
さり気なく寄り添ってみるけれど、先輩は絶対に察しない。それで良いのだ、と思う。鈍感なのは完璧過ぎる先輩を可愛らしく彩る愛嬌なのである。
***
こうして加納譲は松崎彩華のいなかった方の肩をずぶ濡れにし、雨の日に全くそぐわないアイスを彩華に買ってやり、反対方面の電車に乗って彩華の家の最寄り駅まで送る羽目となった。
彩華の知らない事実を一つ挙げておくとするなれば、加納譲の左肩に無造作に引っ掛かっている鞄の底では折り畳み傘がずっと使われずに不満げに押し込まれていたということである。
少なくとも松崎彩華はそう信じている。
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誰よりも整った襟足目掛けて右手を突き出し、細く硬い曲線を描く藍色の傘の柄をそのしわ一つない襟首に引っかける。「うぅっ」意図せず漏れ出る呻き声もどこか知的で鮮やかで素敵だ。先輩が美しいのは何も見た目だけの話ではないのだと思うたびに誇らしい気分がみぞおちの辺りで暴れ出そうとして、それを抑えようとすればするほど身体中余すところなく震えが伝染してしまう。彩華は口元に沸き上がる笑みを隠せないまま、手を引くと共に近付いてくるその大振りなわりに耳朶の小さな耳元で囁いてみせる。
「ゆずるせーんぱい、」
「なっ……まつざ、じゃなくて、彩華君、」
先輩が滑らかで形の良い頤をぎこちなく動かして答える。漸く先輩は彩華に気付いてくれた。先輩は意外とうっかりさんで、傘を引っ掛けるずっと前から彩華は先輩の後姿を舐めるように眺めていたのに全く気付かないし、付き合うと決まった日に下の名前で呼び合うと決めたのに、こうして時々間違えてしまうのだ。尤も完璧が過ぎても逆に魅力がなくなるし、これは天才に添えられたささやかな愛嬌なのだ。首筋を彩華の持つ傘の柄で固定されたまま、制服の上からでも辿れる背中の線が絶妙な角度だけブリッジして、先輩の睫毛の目立つ流し目が揺れる。やっぱり先輩はどんなポーズをとっていても美しいのである。
存分に見とれながら、彩華はこの学校一美しい人の恋人に足る笑みを心がけて、鏡の前で練習した大人っぽい仕草で首を傾げてみた。
「傘、持ってないんでしょう?」
「わかったわかったわかったわかったから兎に角離してくれたまえこれでは首がしまるしまるくるしいくるしいわかったわかったわかったからくるしい……」
この上なく嬉しいことに、先輩は口にせずとも彩華の言わんとしていることを理解していたらしい。いや、凡人とはつくりの違う先輩にはこんな常識くらい当然であった。さすが先輩だ。傘を捻って襟首から柄を抜くと、しなやかな動きを伴って先輩の姿勢が元に戻った。ふう、と漏れ出る悩ましげな溜息に空気に触れる肌という肌が落ち着きをなくす。
「はい、先輩、」
動悸を誤魔化すように傘を差し出すと、振り返った先輩が不思議そうな顔をした。気の抜けた表情はきりっと立ち上がる目尻が不意に和らいでどこか可愛らしさが滲む。けれど、どうしてそのような顔をするのだろう。こういうのは背の高い方――男が傘を持つものではないのだろうか。彩華と先輩では身長差がありすぎて、先輩の肩を濡らしてしまうに違いないのに。
「……は?」
「先輩が、差して下さるんじゃないですか?」
それとも、先輩ほど高貴な方ともなると、おいそれと自分では傘を持たないのだろうか。そういえば今日だって持っていない。もしかすれば、迎えのハイヤーが校門のすぐ外で待ちかまえでもしていて、黒のタキシードに身を固めた初老の執事がお坊ちゃまには雨ごときに指一本触れさせやしないと黒く広く分厚い傘を先輩の頭上に掲げようと待機しているのだろうか。
そうだとしたら――一緒に帰れない。
そう思った途端、傘を握り締める手の平が急に傘の柄の固さを強く感じて、彩華は思わず項垂れた。やはり先輩は彩華などとは別次元に存在しているのだ。いくら恋人の地位をほしいままにしていても、鏡の前でミリ単位まで角度を測って髪の流れ方を計算して大人っぽい仕草を練習しても、そもそもそんな努力をしなければいけない時点で先輩に遠く及ばないのだ。先ほどまで身体の内側で跳ね回っていた心がしゅうしゅうと音を立てて融けていく。先輩、先輩、ああ、先輩! 所詮彩華はそこらの惨めな小石のようなものですけれど、それでも、全てを包容する太陽の如き先輩の背中を見つめ続ける所存です。
先輩が目の前を黒猫に通られたような顔をして、それから一度その大きな瞳を瞼で覆った。つくづく睫毛の長さに嫉妬するばかりである。鼻から抜ける小さな呻きに続く悩ましげな溜息に全身のむず痒さを覚え、彩華は目を逸らす。
右手首が冷たくて少し柔らかい皮膚に包まれた。反応もできずに胸の前辺りまで引き上げられる手首を目で追うと、傘を持つ彩華の右手は先輩の両手の長い指に挟まれていた。節が目立って、白魚のような、というわけではないけれど、美しい先輩の美しい一部分である。そんなところと直に触れ合っているのかと思うだけで彩華は脳味噌が吹き飛びそうなほど興奮する。これはつまり、どういうことだろうか。いつもより顔と顔の距離が近い気がする。再び腹の内側が飛び跳ね始めた。先輩の唇がそっと開いて、美声がさらさらと零れ出る直前のその隙間から垣間見える歯並びの美しさ、白さ、全てを見逃す筈がない。
「彩華君、」
「せ、せんぱい、わ、わたし、」
「君は、」
形の良い鼻梁が迫ってきて、心臓が爆走する。ここは昇降口で生徒も先生もたくさん通っていて、外からも中からもよく見えて、それでするつもりなのだろうか。どうしよう。こういったときの作法を心得ていない。けれど先輩がするのなら、彩華は先輩の恋人なのだからそれに沿う行動をすべきである。既に先ほど先輩に届かないと自身を嘆いたことなど歴史から抹消され、彩華はとりあえずあらゆる文献において行われているからして正しいに違いないと思う行動に出た――今目に映る光景を名残惜しく思いながら瞼をそっと閉じた。
「傘の柄で人の襟首を引っ掛けるのは感心しないな。これは取り上げよう」
言葉を理解するより先に緊張のあまり震える指から傘がもぎ取られていた。握られていた肌がすうすうと寒い。慌てて目を開くと、先輩は昇降口を向いて彩華には背中を向けて不敵な笑みを浮かべていた。顔は見えなくても後姿で彩華には分かる。先輩は確かに不敵な笑みをその美しい顔に映している。
「さて、丁度傘を忘れていたことだし、僕はこれを差して帰ろうと思う」
言いつつ彩華の傘をがざりと開ける。藍色がぱっと広がり、先輩の輪郭がより際立っていく。呆気に取られていると先輩は肩越しに堪らない角度で振り向いて、彩華のためだけに笑った。
「ところで君は傘を持っていないようだが、入るかい?」
目線がきちんと合って、それだけで身体の奥が焼き焦がされる音が鼓膜に伝った。肺が一気に膨らんで受け止め切れない酸素が右往左往する。答えは床を蹴り出した右足が持っていた。優しい熱を以って傘の直径に納まる先輩は確かに彩華の恋人に違いなかった。頭上で弾かれる雫の音は彩華の身体中で弾けている幸福の爆発の音だ。
さり気なく寄り添ってみるけれど、先輩は絶対に察しない。それで良いのだ、と思う。鈍感なのは完璧過ぎる先輩を可愛らしく彩る愛嬌なのである。
***
こうして加納譲は松崎彩華のいなかった方の肩をずぶ濡れにし、雨の日に全くそぐわないアイスを彩華に買ってやり、反対方面の電車に乗って彩華の家の最寄り駅まで送る羽目となった。
彩華の知らない事実を一つ挙げておくとするなれば、加納譲の左肩に無造作に引っ掛かっている鞄の底では折り畳み傘がずっと使われずに不満げに押し込まれていたということである。