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ネヴァーランド 136

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女が運んできた食料が川原に散乱したままだった。その有様から、蹴飛ばし、踏みつけ、大慌てで逃げていった女の姿が容易に復元できる。脱走者たち、あるいは元の亭主たちのための食料の一部を、空腹感に負けて少々失敬した。沢山は食べられなかった。胃が小さくなっている。川藻の佃煮と乾燥杏子が珍しく、また美味かった。味覚は忘却に対して比較的抵抗力が強いという。女が、おぼろげな記憶を頼りに、殊勝にも選んだ、昔の男の好物だったのかもしれない。男と寄っかかり合って、おいしい、すごくおいしい、などと言いながら、酒の肴としてつまんでいた構図を思い描く。
食料の間に混ざってはいたが食料でないものを見つけた。表面に沢山の白い筋が走り、指紋のような模様をなす接触変成岩で、水切りに使えば十二三段は行くほどの平べったい丸石だ。恐らくは僕らが辿ってきた大河のほとりで拾ったのだろう。ヘレンがモー人形を篭の底に忍ばせたことを思い出した。僕も施設ニッポンにいた時に誰だったか或る女子からなにやら硬い永続的なものをもらった記憶がある。机の上に置いておいたがいつのまにか消えた。抜けた乳歯だったか? あの女子はだれだったのだろう。……浮舟だったような気がしてきた。その類のものをこちらから渡したことはない。偶像崇拝、あるいはフェティシズムではないかと疑っていたからだ。こういうことをするのは女に特有なのかな。
この石は何の印だろうか? もう記憶もない昔の男たちへの合図なのか? 何かを共同でしたときの思い出の品なのか? 思い出せないはずの思い出があるとして。いやいや、もうすでに、逸脱やほころびとして、記憶の再生があの女にもいくらか生じているのだろう。そこを、頼りなくもけなげに思い詰めて、ついには冒険的な行動にまで至ったのだろう。 
ステゴザウルスの背びれが並んで突き立ち、いくつもの狭間が下流に向かって延びている。その最右端の回廊を歩む。川に浮いて流されるままは安易過ぎた。罰が当たった。
回廊の断面は、左の岩壁の上端から右の岩壁の下端をつなぐ直線で、右斜め上の薄明かりと左斜め下の暗闇に区切られていた。さらにその奥は、混入する湯気で区切りがあいまいになり、白い蒸気が暗闇を背景にして揺らめく長方形の混沌と化していた。そこからこちらへと突き進んでくるあの何をしてもゆるされると確信している男たちを僕は想像してしまう。うごめく湯気が男たちの顔や膝や肩先やつま先に見えてきたのだ。湯気で出来た亜ゾンビたちは戦闘の舞に酔う白塗り兵士らのようで、それらの隙間をつないでニギャチの姿がネガのイメージとして浮かぶ。ニギャチは、仲間に取り囲まれ、促され、急かされ、ど突かれ、罵声を浴びせられながら、進んでくる。男たちは、僕が谷に出てくるとすぐに足を踏み入れる 〝ゆ〟 の字の渡り場までやって来て待つつもりだったのだろう。ところが途中で、日が暮れてしまい、たちまち死刑執行=晩餐となった。僕が遅刻したせいで。
その場所に今まさに僕は近づいてきた。湯気の作る幻影たちも、湖からの風圧に押されて向こうから近づいてきた。そのうち衝突しかねない。
岩の間から横目で現場を盗み見た。何も残っていない。見ようによっては川べりのあそこが黒くなっている。
川に放り込まれた残骸は、川床を這いながら湖に向かって静々と下っていき、強酸で溶かされ、明日あさってにも、白色鮮やかな骨となり、川面にもし耳をつける者がいたとしたら、大気中ではからりからから鳴るはずの音が、重く、だんらり、くぐもるだろうけれど、しかしやっぱり空虚に聞こえてくることだろう。空虚を語るだろう。
急に視野を岩壁がふさいだ。星と月の光が、湯気で濡れてしずくを垂らす岩肌を薄気味悪く照らす。歩みに連れて後ろへと移動する大小高低さまざまの凹凸が、恐竜の腹の蠕動のようだ。ニギャチの言葉がよみがえる。〝言いだしっぺの俺が、ここにつどう我が友たちの恨みを買い、暴行されて食われちまったらどうすんだよ〟 そんな言い方で、自分の発言を冗談にしてしまい、照れるようにふふんと小さく笑った。ヘレンの言葉がよみがえる。〝夕暮れまでに帰って来られても来られなくてもどっちでもかまわないとニギャチは思ってたんでしょうに。どっちであれ、とにかくあの場からあなたを助けたのよ〟。僕はニギャチという存在にあらためて驚嘆する。同型同一からのはるかな逸脱。僕のために犠牲になったニギャチから、さらに、ゆるすという言葉を聞いたなどという妄想をいだくとは、ずうずうしいにも程がある! ニギャチは、かなり年長に見えたので、戦争には幾度か行ったのだろう。家庭も複数回持っただろう。ひょっとして、カンジの母親の元亭主であったかもしれない。あの平たい石はニギャチ宛だった可能性もある。
胸が苦しくなってきた。息を吸った状態で呼吸が止まっている。パニックを起こしそうだ。小走りになった。岩壁が尽きて、再び川面が見えた。右前方に、岩舞台が見えた。視野の変化がきっかけになったらしく、排気できた。そのすぐあとに、亜硫酸ガス臭い空気を肺いっぱいに吸い込むこととなったが。かまうことか。歩き続けろ。深呼吸しろ。冷静に、冷静に。
キリストと見紛うほどに神々しいニギャチ、シーシュポスのようなケヤホド、全力投球少年ダビデ=カンジ、そして、その母。彼ら四者は、いずれも逸脱の実例とみなされる。彼らを逸脱へと駆った動因はなんだったのだろう。わが身を捨て、危険を顧みない献身?。無償の愛?。価値あるものへの信仰?。ヒューマニズム?。それらを一括してモラルと呼ぶとして、一見、それが現れたかのように見える。 だが、そういう判断は間違いだ。僕だって何故食料を持ってきたかと問われたとしたら、ヒューマニズムからでも、同情からでも、やむにやまれぬ同胞愛からでもなかったと答えざるを得ない。僕は母を知らないから、観察によってしか母子関係を判断できないが、カンジとその母親、あの酔っ払いとその老母の様子から推すと、モラルとは無関係であると思う。
では、ニギャチとケヤホドは、モラルが、突き動かしていたのか? やっぱりそうではないだろう。白っ子1の、いかにも僕を馬鹿にした言い様を思い出す。
(あー、そーかあ、君は、モラルを語りたいんだね? はるか昔の世代が築いた壮大なナンセンスを!)
そのモラルが文明とともに崩壊した後に、物心ついた頃から無モラル教育を受けてきた市民を成員として、帝国は実現した。そこからの逸脱が、古来のモラルに戻ることは出来ない。記憶がたとえ戻ったからといっても、それらのモラルが復活するはずはない。元々持っていなかったものが復活するはずがない。