月天使
私の前に、月見そばが置かれる。割り箸を割る。
「いただきます」
早速、卵の黄身の膜を破ろうとすると、
「待ちなさい」
と、直接、頭の中に、声が響いてきた。
「何だ? 今の?」
おかしいな? とは、思ったが、気を取り直して、卵に向かう。
「待つのです」
またしても、声が、頭の中に、直接響いてきた。
店の中を見回してみる。店員が1人、両隣りにサラリーマン風の客。3人ともおっさんで、響いてきた高く澄んだ声とはイメージがかけ離れている。
「まっ、いっか」
今度こそ、食うぞと箸を伸ばすと、
「待てっちゅうとんのじゃ、こらっ!」
という声がして、右手が何か見えない力に縫いとめられるように動かなくなった。
頭だけ、後ろに、ぐ、ぎ、ぎ、ぎ、ぎ、と回すと、そこに不思議な光を放つ何かがあった。
それは、宙に浮かぶ、赤ん坊のようであった。背中に白い小さな翼をもち、頭の上に光る輪が水平に浮かんでいた。
「き、君は?」
「私は、月天使」
「月天使?」
「そう、月を守るのが私の役目」
「……後にしてくれませんか? とりあえず、これ食っちゃいますから」
「いや、だから、月見そばや月見うどんの月を守護するのが私の役目……」
私と月天使は、しばし、見つめ合った。
「……意地でも食ってやる」
私は、月見そばに向き直った。
「まぁ、そう、慌てなさんな」
月天使は、とりなすように言ってくる。
「別に、食べるなと言っているわけじゃない。しばし、卵の黄身を割るのを待ってくれまいか? 美しい月を見ながらそばをすする。これぞ、まさしく、月見そばではないか?」
「何言ってやがる。俺はなぁ、崩した卵の黄身を麺に絡めて食うのが好きなんだよ。見てるだけじゃ、味が変わらねぇだろう?」
「だから、食うなとは言ってない。最後に、卵をちゅるっと、すすれば……」
「それじゃあ、そばと卵を食ったことにはなっても、月見そばを食ったことにはならん。えぇい、左手で食ってやる」
私は、左手で、右手の箸を、ひったくるようにして取り、卵の黄身に箸を伸ばした。すると、慣れない左手だからというか、なのにというか、箸の上に黄身が乗っかり、そして、黄身は再び、麺つゆの中にダイブした。
その瞬間、黄身が落ちたあたりに濃密な湯気が立ち上り、あっという間に、それが晴れると、そこに、白いローブをまとい白く長いひげを蓄えた老人の小人が立っていた。
「わしは、この月見そばの精じゃ。お前が落したのは、この銀の卵の黄身か? それとも、この金の卵の黄身か?」
「いえ、私が落したのは、普通の本物の卵の黄身です」
「うむ、偉い。お前は正直者じゃ。よって、この銀の卵の黄身と金の卵の黄身を与えよう」
そう言うと、老人の小人は麺つゆの中に消えていった。
「えっ、おいっ、ちょっと待て。俺の本物の卵の黄身、返せ。おいっ!」
しかし、小人も、卵の黄身も、戻ってはこなかった。
「くそっっっ!」
私は、荒々しく、立ち食い蕎麦屋のカウンターを拳で叩いた。
すると、麺つゆが丼の淵からこぼれて、丼の外側を伝った。
「あっ、いっけね」
私は、急いで、紙ナプキンで、丼を拭いた。
すると、もくもくと煙が立ち上り、魔人が出てきて言った。
「私はこの丼の魔人。願いを3つかなえよう」
「……悪いが1人にしてくれないか?」