机の言葉(前編)
これが恋というものなのだろうか。今まで特に意識したことはなかったけれど、高校生ともなればその手の恋話は沢山聞く。その度に僕は言いようのないもやもや感に包まれていた。僕が岬さんにこの気持ちを伝える時は、来るのだろうか。
でも、岬さんはなんと言っても高嶺の花だ。初めて会ったときもそれを思い知らされる出来事に遭遇した。仲良くなっていない状態での告白は、流石に無理がありそうだ。
そんなことをぼやけた頭で考えているうち、教壇で喋る数学教師の声が止んだ。どうやら問題演習の時間に入ったらしい。当てられて答えられないというのは恥ずかしいので、問題を眺めることにする。
と、ノートに計算を書こうとしたその時、机の右端に何か書いてあることに気づいた。シャープペンの薄い黒で、ちょっとだけ波打った字。よく見ようとノートをどける。
こう書いてあった。
『あなたが、好きです』
こ、これは……!
◇ A-4
「あんたさ、どうして古川が好きなの?」
向かいに坐る友人、香苗の声で授業に引き戻された。物理の実験も半分以上が過ぎ、終わった班からレポートを書き始めていた。ざわざわした雰囲気は相変わらず。
数十分前に自分がしでかした行動を思い出すだけで、自分の気持ちが落ちこんでいくのを感じた。どうしてあんなことをしたのだろう。古川君への告白を机の落書きのような字で伝えようとしたなんて、本人に気づかれるかもしれないと思うだけで顔が赤くなる。
しどろもどろで軽く泣きそうになりながら、私はそんな経緯を香苗と班の同級生に話した。話し終わると、香苗は一つ大きなため息をついたのだった。それもまた私の傷口を広げた。
さて、どうして好きなの、と訊かれても。
……そんなこと、言えるわけない。恥ずかしすぎる。
ぼそぼそとお茶を濁すことにする。
「前に……見かけて」
「それで?」
「あと、文化祭の時とか……」
「なんなのよ。なんかエピソードとか聞かせなさいよ」
そんなに強く言われても無理無理。話せるわけない。主な思い出なんてひとつふたつしかないし、それだって人に話すほど大した話でもないのだ。
自分の心の中にとっておきたいだけの、小さな記憶。
だから本当は、告白なんてもってのほかだった。あの机の文字を古川君が見つけるかは別にして、こんなに焦るべきじゃなかったのだ。
もっとこう、ゆっくりがよかった。例えば教室移動の時に少し言葉を交わすくらいが、丁度。少しずつ彼のことを知って、同じように私のことを知ってもらえるような。そうやって一枚一枚思い出の写真を積み上げていくのが、私が妄想していた、「恋」の形だったのだ。
そしてそれだからこそ、香苗のため息は刺さるのだ。改めて痛感した。どうして、机にあんな言葉を書いたのだろう。ゆっくり積み上げる恋がしたいならそんなことするべきじゃなかったし、机に書くくらいなら思い切って言えばいいだけのことだ。
そんなことすらできない自分自身に、私は悲しくなったのだった。
そろそろ二時間目の授業も終わる時間だ。私はただ、願う。どうか、私の中途半端な言葉に、彼が気づきませんように。
◇ B-4
授業が終わるまで、あと十分。
今までにない速度で頭が回転しているのを感じた。
机のメッセージが気になり、何度も読む。
『あなたが、好きです』
数学教師が演習問題の回答を説明しているのを無視し、僕はこの言葉について考えていた。
間違いない。これは、あの人だ。
一年前、岬さんと初めて出会った、文化祭での出来事。まさか、あれが。
窓を向いて考えている内に先生の話も終わり、周りの同級生もすでに片づけを始めている。教室を間借りしているため、いつもより五分ほど早く終わるのが通例だ。
僕も、動かなくてはいけない。
一度冷静になるよう努め、まず一つの事実を確認する。
僕は、久しぶりに、緊張感を味わっていた。
机の文字。
誰かが、岬さんの机に、これを書いた。
当然、机の持ち主である岬さん自身がこんなこと書くわけないから、必然、一つの事実が浮かび上がる。
――僕のほかに、岬さんを好きなやつがいる。
日直の起立の声が、教室に響いた。