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和尚さんの法話 「仏法聞き難し」

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仏法聞き難しと、いう言葉がお経にありますが仏法逢い難しということでもありますね。
ようするに仏法に逢うのが難しいというわけです。
これは法然上人の法語に一部が出ていますのでご紹介します。
「それ流浪三界の内」
三界とは欲界、色界、無色界という迷いの世界を流浪する。
あっちへ行き、こっちへ行きして一直線にずーっと悟りの道を登っていけないということですね、とにかく輪廻するわけです。

「何れの境に趣きてか釈尊の出世に逢わざりし」
今自分が、法然上人は自分を実感しているわけですね。
自分が凡夫として娑婆で輪廻してるということは、過去において仏様に逢うことができなかったからなんだということですね。

「輪廻転生の間何れの生を受けてか如来の説法を聴かざりし」
とにかく輪廻して、あっち生まれ、こっち生まれしてきたけれど、その間に一回も仏様の教えを聴いたことがない。
聴いたことがないから 今こうして証拠として未だこうして娑婆に生まれて輪廻してきているんだと、こういうことですね。

「華厳開講のむしろにも交わらず」
お釈迦様が一番最初にお説きになったお経が華厳経だということになってますその華厳を説法なさったその場にも居らなかった。

「般若演説の座にも連ならず」 
このお経は長いお経なんですけれども、般若経をお説きになったときにも居らなかった。

「鷲峰(じゅぶ)説法の庭にも望まず」 
霊鷲仙でお説法されたこともある。 
祇園精舎でお説法をなさったことがあるけれど、霊鷲仙でお説法なさったときにも、そこにも居らなかった。

「鶴林涅槃のみぎりにも至らず」 
鶴林涅槃というのは、お釈迦様が最後の涅槃に入られるときをいいますが、そのときにも居らなかった。

「吾れ舎衛の三億の家には宿りけん」
お釈迦様が舎衛国の祇園精舎で二十五年間居られたというのですね、そこを根拠にしてあちらの国へ、こちらの国へと、あちこちへ廻って、また祇園精舎へ帰ってきて、また時期を改めて他国へ廻られて説法をして帰ったんです。
舎衛国は一番長く居られた場所ですね、祇園精舎がありますから二十五年居られたというのですね。
ところが舎衛国の人民がお釈迦様という仏様がお出ましになって結構なお説法をなさっているということを知らずに居た人もいるんですね。 お釈迦様という人が居るという噂すら知らなかったという人が三分の一あったといいますね。

「知らず地獄八熱の底にや住みけん」
お釈迦様の説法を目の当たりに聴くことが出来たのが三分の一縁があって聴くことが出来たんですね。
そして次の三分の一の衆生は、舎衛国のいう国でお釈迦様という立派なお方が居られて、結構な説法を説いてるそうな、という噂は聴いたけど、目の当たりにお釈迦様の説法を聴くことが出来なかった。
そして残りの三分の一は聴かず知らでぞ闇にけり。
お釈迦様というお方が舎衛の国に居られて結構な説法を聴かせてくれるなんて、そんな噂さえ聴くことが出来なかった。 とそういう意味なんです。

末法讃という和讃がありまして
「如来舎衛国にして 二十五年をへしかども 九億の家の三億は 聞かず知らでぞ止みにける」 
と、ここのところを説いているわけです。
だから仏縁というのは なかなか逢い難いんですね。

お寺に生まれた人は生まれたときから仏教のことを親から聞いているし、仏教というのがあって当たり前と思っているわけです。
皆さんもまた物心付いたら 何処何処のお寺の檀家やと、いうことになっていますね。
ですから我々にとっては仏教というのは、あるのが当たり前というような感じですね。
しかしながら、やがて一万年たったら仏教は消滅してしまう。
そして次に仏教がこの世に現れるのは五十六億七千万年後の遥か彼方の時代のことです。
そのときに弥勒菩薩がこの世にお出ましになってくることになっていますが、それまでに一万年たったら仏教は消滅してしまうのです。
もうこの世には仏教は無いのですよね、ですからそこに生まれてくる人たちは、まったく仏縁が無いということになってきますね。

先ほどの 「吾れ舎衛の三億の家には宿りけん」 と、いうのは そういう意味です。
もし生まれていたとしたらお釈迦様の生まれていたとして舎衛国の三分の一の聴かず知らでぞ闇にけりと、その中に生まれていたのであろうかと言っているのですね。

「知らず地獄八熱の底にや住みけん」或いはこの地獄という そういう八寒八熱の地獄の底に生まれて居ったんであろうかと言っているんですね。

「愧ずべし愧ずべし 悲しむべし悲しむべし
まさに今多生曠(こう)劫を経ても生まれ難き人界に生まれ」
長い長い長い時間がたってようやく人間界に生まれてくる。
その人間界に我々は生まれてきたのです。

「無量億劫を送りても逢い難き仏法に逢えり」
なかなか仏教に逢えない。
我々は生まれたときから仏教に出逢ってるから、仏教に逢えないなどと ちっとも不思議に思いませんけど、あるお経の中に、我々人間が人間として生まれてくると、いうことが非情に難しいと、あります。
我々人間のほかに獣類がありますでしょ。
鳥類もありますし、それから魚類がある、それから虫類がある。
是は皆仏教からの教えによりますと皆霊魂を持っております。
霊魂を持っている限り本来皆同類なんですよ。
ただ業が深いからそういうふうに、獣類になり、鳥類や虫に生まれているわけです。
なかなか人間には生まれ難いんですよ。
人間に生まれることがいかに難しいかというお経もあります。


それはお釈迦様があるときにガンジス川の畔を、弟子を連れて歩いていました。
そのときは裸足で歩いていましたので、足の先で砂をすっと、すくったのですね。
五本の指の爪の上に僅かに砂が乗っかっているわけですね。
そして弟子たちに
今、私が足ですくって、この五本の指の爪の上に乗っているこの砂の量と、ガンジス川の砂の量とどちらが多いかと弟子たちに聞きました。
そしたらお弟子さんたちは、いやーそれはもう例えになりません。
世尊の指の上に乗った砂の方がわずかな量でございますと。
砂は皆さんご存知のように小さな粒になっていますね、指の上に乗った砂の量は僅かですから数えることが出来ます。
ところがガンジス川の砂の量というのは、これはもう数えることが出来ません。
これはもう例えになりませんと、お応えするわけです。
そのときにお釈迦様はこの、私の爪の上に乗った砂の量は何を言ってるかというと人間の数を言っているんだよ、と。
そして、ガンジス川の砂の量はなにかというと、他の今言う鳥類とか獣類、魚類、そういう数を言っているのです。
そいう数から例えたら人間というのは僅かなものです。
だからその人間に今、我々は生まれてきているんだという、そういう例えのお経があるわけです。
「爪上の砂」(そうじょうのすな)というお経です。

それから仏教に逢い難い。
いくら人間に生まれても仏教に逢う人と逢わない人がある。
せっかく人間に生まれても仏教を知らずに死んで逝く人もある。 
というわけです。

それの例えもあります。

「盲亀浮木」 (もうきふぼく) というお経のお話です。