和尚さんの法話 「仏教と占い」
今回は、仏教と占いということで、いささか違和感のあるようなテーマになっていますが、仏教は占いを否定しない。
認めているということです。
仏教は一般的に、オカルト的なことは認めない。
不思議無しという、今で言うならば非科学的なものは認めないというふうな言い方を往々にしてされるのですが、それは一方的なというのは、浅はかなというのか、そういうふうな見解であると、このお話しをされた和尚さんは考えているとのこと。
仏教はその神秘的なことを否定しているのではない。
人相を認めているのだということです。
「占察善悪業報経」というお経がありますが、お経を講釈するというのではないのですが所々を、注釈を加えながらお話しを進めて行きたいということです。
此のお経は、上下二巻になっていて長い。
観無量寿経くらいの量があるんじゃないかと思うのですが、その一部分を、ご紹介をさせて頂きます。
途中からになっているのですが、お釈迦様がこの地上で、祇園精舎とか、その地上で、肉声で以ってお説法したと、いうようなお経ではないんです。
インドに霊鷲仙という山があるのですが、その山にもお釈迦様はお住まいになってお話しされたのですが、場所はそこなんです。
場所はそこなんですけれども、そこに大勢皆さんが集まって、というような説き方じゃないんで、お釈迦様がそこで神通力で以って禅定に入って、そこにひとつの大きな道場を変幻するわけですね。
だから我々凡夫がそこへ行ったってちっとも見えないんです。
菩薩とかそういう聖者にはそこでそういう大きな立派な道場があるというのが心眼で見えるわけです。
そういう形で以って説かれたお経なんです。
そこからしてだいたい皆さんには信じてもらえないわけなんですね。
このお経を説いた場所というのは、お釈迦様の禅定三昧の世界で説いたお経だということです。
ちょっと別な言い方をしますと、例えば阿弥陀如来様の極楽浄土がありますね。その極楽浄土というのは、阿弥陀様の三昧の世界です。
神通力で変化した非常に広くて、非常に清らかなそういう道場を化作して、そこに大勢の方々が伴った。極楽浄土もそうなんです。
阿弥陀様の禅定の世界なんです。
だから肉体を持ってるか持ってないかの違いなんですね。
禅定の世界へ入りましたら肉体を超越するのが三昧禅定なんですからね。
五識を滅し。五識というのは肉体と密接に関係しているわけだから、その五識を滅して、禅定三昧になるのだから。
だから三昧は肉体はあってもなかっても一緒なんですね。
そこへ広い広い道場を変化して化作したと。そこでこのお経を説かれたわけです。
一、 会中に一人の菩薩有り「堅淨信と名く。座より起って衣服を整え、合掌して仏に白して言さく。「我今此の衆の中に於て問尋せんと欲す。講う、世尊、願わくは聴許を垂れ給え」と。仏、言わく、「善男子、汝が問う所に従って便ち之を説くべし」と。堅淨信菩薩の言さく、「仏の先に説き給うが如く、若し我世を去りて正法滅して後、像法次いで尽き末世に入るに及んで是の如きの時、衆生薄福にして諸の苦悩多く、国土数々(しばしば)乱れて災害頻りに起こり、種々の厄難恐怖逼迫せん。我が諸の弟子等其の善念を失して唯貧瞋嫉妬我慢を増長す。設(たと)い象似に善法を行ずる者有れども、但世間の利養名聞を求めて之れを主とす。専心に出要の法を修すること能わず。爾の時衆生等世の災乱を見て心恒におののき、己身及び親族の衣食の得ざることを憂畏す。此の如き等の数夛の障礙の因縁を以ての故に仏法の中に於いて頓根少信にして得道の者極めて少なし。乃至漸々に信心成就する者亦復尠し。是の如く末法に入りて経ること久しくして信と禅とを獲得する者全く無けん。我今此の末法悪世の中にして微少の禅根有る者の為に如来に問い奉る。如何なる方便を設けて開示化導して信心を生ぜしめ衰脳を除くことを得せしめん。彼の衆生等其の善心を退し因果の法に於いて疑惑を起こして堅心に善法を専求すること能わず。是の如きの衆生は愍むべく救うべし、世尊、願わくは方便を以て疑網を離れしめ諸の障礙(しょうがい)を除き給え。信、増長することを得ば順って大利を獲ん」と。
仏、堅淨信に告げ給わく。「善い哉々々、能く此の事を問えり。深く我が意に適えり。今此の中に菩薩摩訶薩有り、名けて地蔵と曰う。汝応さに此の事を以て地蔵に問うべし。彼は応さに汝が為に開示演説して汝が所願を成ずべし」と。時に堅淨信菩薩、復た仏に白して言さく。「世尊、何が故に自ら説かずして地蔵菩薩に説かしめんと欲するや」仏、堅淨信に告げ給わく、「汝、高下の念を抱く事勿れ。此の善男子発心してより無量無辺阿僧祇劫を過ぎ、久しく己に薩婆若海を渡りて功徳満足せり、権巧現化して影の如く十方に応ず。復た能く一切の刹土に遊んで五濁悪世に於いて化益偏えにして衆生を成熟す。唯、遍吉と観世音を除いて諸の大菩薩の皆及ぶ者有ることなし。此の故に我今此の菩薩をして説かしむるなり」と。
爾時、堅淨信菩薩、既に仏意を解し終わって尋いで即ち地蔵菩薩摩訶薩を歎請して白さく。「善き哉救世の真土、善き哉大智開士。我が所問の如く悪世の衆生は如何なる方便を以てか之を化導し、諸の障難を離れて堅固の信を得せしめん。如来は今や是の方便を説かしめんと欲し給う。宜しく為に哀愍 (ひびん)して説き給え」と。
爾時、地蔵菩薩摩訶薩、堅淨信菩薩に告げ給わく。「善男子、諦かに聽け当に汝が説くべし。仏の滅後、悪世の中にして諸有の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は因果の法に於て未だ決定の信を得ず。無常相・苦相・無我想・不浄想を修学して成就すること能わず。四諦・十二因縁の法を観ること能わず。真如・不生・不滅等の法を解すること無し。此の故に畢意(ひつい)して十悪の業を作らざる事能わず。三宝の功徳に於いて専信すること無し。是の如き等の人、憂慮(うりょ)を増長し、或いは悔いて心明了ならず。思想は憂乱して道業を修することを廃す。是の如き障難の事有らん者はまさに木輪相の法を用いて善悪宿世の業、現在の喜楽吉凶等の事を占察すべし。――― 其の輪相は三種有り、一の輪相は能く宿世に造れる善悪の業を示す。二の輪相は宿世の業の久近と強弱、大小の差別を示し、三の輪相は三世の中の受報の差別を示す。若し此の輪相を以て占せんと欲する者は先ずまさに十方一切の諸仏を総礼すべし。因って願を建てよ『願わくは一切の衆生をして速やかに皆受持読誦し、法の如く修行し及び他の為に説くことを得せしめん事を』と。次に一切の聖賢を敬礼すべし。因って即ち願を建てよ。『願わくは一切の衆生をして速やかに親近し供養し菩提心を発して不退転を得せしめん事を』と。
後にまさに我が地蔵を礼すべし。因って即ち願を立てよ。『願わくは一切衆生をして速やかに悪業重罪を除滅し諸の障難を離れ、資生の衆具を充足する事を得せしめん事を』と。―――
― 占察善悪業報経 ―
その会の中に堅淨信という一人の菩薩があって、その菩薩がお釈迦様に、貴方様がお亡くなりになったあとに、正法が滅して末法に入ってくると。
その末法に入ってくるとこういうことになってくるということを、更にその前にお釈迦さんが説いてあるんですね。それを言ってるんですね。
認めているということです。
仏教は一般的に、オカルト的なことは認めない。
不思議無しという、今で言うならば非科学的なものは認めないというふうな言い方を往々にしてされるのですが、それは一方的なというのは、浅はかなというのか、そういうふうな見解であると、このお話しをされた和尚さんは考えているとのこと。
仏教はその神秘的なことを否定しているのではない。
人相を認めているのだということです。
「占察善悪業報経」というお経がありますが、お経を講釈するというのではないのですが所々を、注釈を加えながらお話しを進めて行きたいということです。
此のお経は、上下二巻になっていて長い。
観無量寿経くらいの量があるんじゃないかと思うのですが、その一部分を、ご紹介をさせて頂きます。
途中からになっているのですが、お釈迦様がこの地上で、祇園精舎とか、その地上で、肉声で以ってお説法したと、いうようなお経ではないんです。
インドに霊鷲仙という山があるのですが、その山にもお釈迦様はお住まいになってお話しされたのですが、場所はそこなんです。
場所はそこなんですけれども、そこに大勢皆さんが集まって、というような説き方じゃないんで、お釈迦様がそこで神通力で以って禅定に入って、そこにひとつの大きな道場を変幻するわけですね。
だから我々凡夫がそこへ行ったってちっとも見えないんです。
菩薩とかそういう聖者にはそこでそういう大きな立派な道場があるというのが心眼で見えるわけです。
そういう形で以って説かれたお経なんです。
そこからしてだいたい皆さんには信じてもらえないわけなんですね。
このお経を説いた場所というのは、お釈迦様の禅定三昧の世界で説いたお経だということです。
ちょっと別な言い方をしますと、例えば阿弥陀如来様の極楽浄土がありますね。その極楽浄土というのは、阿弥陀様の三昧の世界です。
神通力で変化した非常に広くて、非常に清らかなそういう道場を化作して、そこに大勢の方々が伴った。極楽浄土もそうなんです。
阿弥陀様の禅定の世界なんです。
だから肉体を持ってるか持ってないかの違いなんですね。
禅定の世界へ入りましたら肉体を超越するのが三昧禅定なんですからね。
五識を滅し。五識というのは肉体と密接に関係しているわけだから、その五識を滅して、禅定三昧になるのだから。
だから三昧は肉体はあってもなかっても一緒なんですね。
そこへ広い広い道場を変化して化作したと。そこでこのお経を説かれたわけです。
一、 会中に一人の菩薩有り「堅淨信と名く。座より起って衣服を整え、合掌して仏に白して言さく。「我今此の衆の中に於て問尋せんと欲す。講う、世尊、願わくは聴許を垂れ給え」と。仏、言わく、「善男子、汝が問う所に従って便ち之を説くべし」と。堅淨信菩薩の言さく、「仏の先に説き給うが如く、若し我世を去りて正法滅して後、像法次いで尽き末世に入るに及んで是の如きの時、衆生薄福にして諸の苦悩多く、国土数々(しばしば)乱れて災害頻りに起こり、種々の厄難恐怖逼迫せん。我が諸の弟子等其の善念を失して唯貧瞋嫉妬我慢を増長す。設(たと)い象似に善法を行ずる者有れども、但世間の利養名聞を求めて之れを主とす。専心に出要の法を修すること能わず。爾の時衆生等世の災乱を見て心恒におののき、己身及び親族の衣食の得ざることを憂畏す。此の如き等の数夛の障礙の因縁を以ての故に仏法の中に於いて頓根少信にして得道の者極めて少なし。乃至漸々に信心成就する者亦復尠し。是の如く末法に入りて経ること久しくして信と禅とを獲得する者全く無けん。我今此の末法悪世の中にして微少の禅根有る者の為に如来に問い奉る。如何なる方便を設けて開示化導して信心を生ぜしめ衰脳を除くことを得せしめん。彼の衆生等其の善心を退し因果の法に於いて疑惑を起こして堅心に善法を専求すること能わず。是の如きの衆生は愍むべく救うべし、世尊、願わくは方便を以て疑網を離れしめ諸の障礙(しょうがい)を除き給え。信、増長することを得ば順って大利を獲ん」と。
仏、堅淨信に告げ給わく。「善い哉々々、能く此の事を問えり。深く我が意に適えり。今此の中に菩薩摩訶薩有り、名けて地蔵と曰う。汝応さに此の事を以て地蔵に問うべし。彼は応さに汝が為に開示演説して汝が所願を成ずべし」と。時に堅淨信菩薩、復た仏に白して言さく。「世尊、何が故に自ら説かずして地蔵菩薩に説かしめんと欲するや」仏、堅淨信に告げ給わく、「汝、高下の念を抱く事勿れ。此の善男子発心してより無量無辺阿僧祇劫を過ぎ、久しく己に薩婆若海を渡りて功徳満足せり、権巧現化して影の如く十方に応ず。復た能く一切の刹土に遊んで五濁悪世に於いて化益偏えにして衆生を成熟す。唯、遍吉と観世音を除いて諸の大菩薩の皆及ぶ者有ることなし。此の故に我今此の菩薩をして説かしむるなり」と。
爾時、堅淨信菩薩、既に仏意を解し終わって尋いで即ち地蔵菩薩摩訶薩を歎請して白さく。「善き哉救世の真土、善き哉大智開士。我が所問の如く悪世の衆生は如何なる方便を以てか之を化導し、諸の障難を離れて堅固の信を得せしめん。如来は今や是の方便を説かしめんと欲し給う。宜しく為に哀愍 (ひびん)して説き給え」と。
爾時、地蔵菩薩摩訶薩、堅淨信菩薩に告げ給わく。「善男子、諦かに聽け当に汝が説くべし。仏の滅後、悪世の中にして諸有の比丘・比丘尼・優婆塞・優婆夷は因果の法に於て未だ決定の信を得ず。無常相・苦相・無我想・不浄想を修学して成就すること能わず。四諦・十二因縁の法を観ること能わず。真如・不生・不滅等の法を解すること無し。此の故に畢意(ひつい)して十悪の業を作らざる事能わず。三宝の功徳に於いて専信すること無し。是の如き等の人、憂慮(うりょ)を増長し、或いは悔いて心明了ならず。思想は憂乱して道業を修することを廃す。是の如き障難の事有らん者はまさに木輪相の法を用いて善悪宿世の業、現在の喜楽吉凶等の事を占察すべし。――― 其の輪相は三種有り、一の輪相は能く宿世に造れる善悪の業を示す。二の輪相は宿世の業の久近と強弱、大小の差別を示し、三の輪相は三世の中の受報の差別を示す。若し此の輪相を以て占せんと欲する者は先ずまさに十方一切の諸仏を総礼すべし。因って願を建てよ『願わくは一切の衆生をして速やかに皆受持読誦し、法の如く修行し及び他の為に説くことを得せしめん事を』と。次に一切の聖賢を敬礼すべし。因って即ち願を建てよ。『願わくは一切の衆生をして速やかに親近し供養し菩提心を発して不退転を得せしめん事を』と。
後にまさに我が地蔵を礼すべし。因って即ち願を立てよ。『願わくは一切衆生をして速やかに悪業重罪を除滅し諸の障難を離れ、資生の衆具を充足する事を得せしめん事を』と。―――
― 占察善悪業報経 ―
その会の中に堅淨信という一人の菩薩があって、その菩薩がお釈迦様に、貴方様がお亡くなりになったあとに、正法が滅して末法に入ってくると。
その末法に入ってくるとこういうことになってくるということを、更にその前にお釈迦さんが説いてあるんですね。それを言ってるんですね。
作品名:和尚さんの法話 「仏教と占い」 作家名:みわ