アインシュタイン・ハイツ 104号室
或る火曜日のお客さま
弦楽器工房は数あれど、それがコントラバス専門であって、良い職人が居る、ということになると探すのが極端に難しくなってくる。見知らぬ土地、それも昨夜訪れたばかりだと尚更だ。だから、リハーサル中に楽器の調子が悪く、いよいよ音が響かなくなって焦った。そのままリハーサルが終わってしまい、日没の時間となってしまっている。最終リハーサルがまだ明日の昼に控えているとは言え、本番はその夜である。
エキストラでの演奏という、小さな、だが立派な自分の演奏家としての初仕事であるのに、メンテナンスを怠っていた自分が呪わしい。だがここ一週間の出来事を思えば、それも仕方ないのかもしれないと、最近の自分の巡り合わせの悪さに思わず額を押さえて溜め息を吐いた。
……育ての親である祖母が倒れたのが一週間程前、亡くなったのが一昨日だった。
体の不調を訴えていたが、それは年寄りらしい、年齢を重ねる毎で自然に溜まるものだと思っていた。だから何の根拠もなしに、或る程度来院を続けているらしいと聞けば、安心し大丈夫だと勝手に思い込んでいたのだ。
自分が音楽で食べていく事に表立って反対はしなかったものの、眉根を寄せて強く難色を示した祖母。
――音楽だなんて、そんな仕事を選ぶとは。私に対するあてつけかしらね。
「どうされました」
ホテルに戻る気にもならず、ラウンジのソファにひとり座っていると、スーツ姿の老人に声を掛けられる。誰も居ないと思っていたところで、思わず話しかけられて、驚いた。
「明日、演奏される方ですね。何かお困りですか」
立てかけてあるコントラバスケースを見て、演奏者だと判断してくれたらしかったし、おそらく自分は非常に情けない顔をしているのだろう、そのように尋ねられた。
「私、この音楽ホールの支配人である梶と申します。お困りであれば、できる範囲でお手伝いさせて頂ければと思いますが」
例えこの老人がこの楽器をどうにかしてくれなくとも、誰かに訴える機会が与えられたことに少しだが救われる思いがした。だから「楽器が」と消え入りそうな声で応じたのだが、それ以上は言葉が詰まって続かない。……だが支配人はこちらを安心させるように柔和な笑みを浮かべた。
「楽器……そちらのコントラバスですね。隣町に、知り合いの楽器工房があるのです。連絡先をお教えいたしましょう」
――驚いたことに、老人は自分の意図を察してくれた。
少しお待ちください、と何処かへ行き、暫くして別の女性が「申し訳ありません、支配人のほうが急用で席を外しまして、言付けを頼まれました」と、渡されたのは一枚のメモ書きだった。「梶の紹介でと名前を出して構わないとのことです」。
渡されたメモには達筆な字で携帯番号と見慣れない隣町の住所と地図。有沢工房というのがその支配人の知り合いだという弦楽器工房の名前だった。地図を見れば、幸いなことにホールのバス停から、件の弦楽器工房近くの駅まで行けるらしい。貧乏音楽家の移動手段は専ら電車かバスであるから、有難いことこの上なかった。
女性に、おそらく支配人の部下だろうが、礼を言い、支配人にも礼をと言付けて、コントラバスを入れた大きなケースを伴いホールを出れば、辺りは薄暗く、肌寒さに心細さを感じる。何処からか金木犀が香っている。そういえば、金木犀は、おそらく祖母の好きな花だった、そんな話はついぞしたことはなかったが。
――育ての親が亡くなったというのに、葬式が終わったその足で優雅に演奏会とはね。恩を仇で返すようじゃないか。
しめやかな葬式での、親族の嘲笑が思い出される。
不安定で、奏者としては将来が約束されている訳でもない先の見えない仕事につこうとした自分を、祖母はおそらく心配していたように思う。厳しかったが、確かに自分に対する情はあったはずだ……自分が祖母を嫌っていないように。
祖母は倒れてから亡くなるまで、結局意識を戻すことはなかった。目先の仕事の練習のために帰宅するのは夜遅く、そんな自分に対して最近口数の少なかった祖母との会話をまともに覚えていない。それで不思議と悔やまれるということはないから、確かに自分は薄情かもしれなかった。
ただ、祖母に来て欲しくて押さえていた一枚のチケットは結局渡せずじまいでポケットに入ったままだ。棺の中に入れて、一緒に燃してしまえば良かったのかもしれなかった。
これから楽器を伴い訪問したい旨を伝えようと携帯を取り出し、メモの番号に電話を掛ける。『はい、有沢です』と電話に出たのは若い女性の声で、少し意表を突く。楽器を作るのは、偏見かもしれないが、男性の職人だとのイメージを持っていた。
「あの、ルブレト・ホールの梶支配人から紹介を受けまして。コントラバスのメンテナンスをお願いしたいのですが」
『あら、ルブレト・ホールと言えば、明日が本番ではなかったかしら。お急ぎでらっしゃる?』
作品名:アインシュタイン・ハイツ 104号室 作家名:藤中ふみ