和尚さんの法話 「臨終の一念」
この臨終の一念ということは、仏教にとりまして大変に重要なことでありますので、テーマは違いますがそのつどそのつどに出たお話ではないかと思うのです。
ご記憶がございましたらおさらいとして頂きたいと思います。
意味がありまして、その一つは、説願の心境といいますか一心といいますか、その一念。
臨終の説願の一念。
もうひとつは、臨終のときの一遍、十遍の念仏という意味の一念。
その二つの意味を含めて頂いたつもりです。
この言葉の臨終ということは、後々の仏教の言葉でありますけども、お医者さんがよくお使いになりますね、ご臨終ですと。
然し、本来の仏教の臨終というのは、まだ死んでいない、これから死んで行くというときです。
臨むというのは、死に臨むということですから、死ぬということは終わりということですから、その終わりに臨むのですから、そこにいく時かの時間があるわけです。
そのときのことを臨終というのです。
その臨終の心のもちかたですね。
それが臨終の一念です。
その臨終が如何に大事であるかということをお話したいと思います。
私たちは、今は健康でいたとしましても、いつかは必ず死ぬときがくるわけです。
その死ぬときも、現在のような冷静な正常な心境でもって死んでいくことができるんだと、なんとなくそう思いがちなんですね。
無意識的にそう思えてくるのですね。
ところが、そういう方もいらっしゃいますけれども、なかなかそうはいかない方もいる。
一、
「怱爾(こつじ)に無常の苦来逼(らいひつ)すれば精神錯乱して始めて驚忙(きょうぼう)す。」
いままでまだ死ぬと思うていなかったのに、突然、苦痛が起こってきて、もうここで死ぬのかな、というような状況に追い込まれたというのですね。
或は、病気が刹那に起こってくるとか。或は、交通事故に遭って、死ぬほどの重傷になったとか、これはひょっとしたら死ぬかもわからないというようなときですね。
怱爾に無常の、というのは死ぬということです。
死が来たり逼(せま)るわけです。
そして驚いて我を忘れてしまうということですね。
これは中国の善導大師のお言葉です。
二、
「対名將(だいみょうまさ)に終わらんとして悔懼交々(くげこもごも)至る。 あらかじめ善を修せずして極めるに臨みてまさに悔ゆるとも何ぞまさに及ばんや。」
― 無量寿経 ―
「対名將(だいみょうまさ)に終わらんとして悔懼交々(くげこもごも)至る。」
とは、今これから死んで行くということに追い込まれたときに、いろんな後悔や懼(おそれ)が交互にあれも起こりこれも起こり、いろんなことが起こってくる。
「あらかじめ善を修せずして極めるに臨みてまさに悔ゆるとも何ぞまさに及ばんや。」
今までになにも善いことをしていない。
後生というのも考えずに、この世はこれで終わりだというふうなことだけしか考えていないんですね。
そして命が終わるとき、つまり臨終を迎えるときに、そのときになって後悔しても遅い。
所謂これを「宿善」といいますが、宿とは先の世、前世のことです。
前世の積んだ功徳ですね。
所謂これが我々のこの世の運命ですね。
宿善によって仏縁にも出遭える。
宿善にも深い浅いがございますがね。
兎に角、仏法だけではなくて、日常のことの致すところということですが、宿善があればよろしいのですが、宿善が何も無いということになると、死が近付くと顛倒、錯乱が起こってくるわけです。
と、お経には説いてあるわけです。
それからもうひとつ、これは他のお経から見つけた言葉ですが、「閻浮提の衆生、命終のときに臨んで神識昏昧」閻浮提というのは、この現在の地球です。この神識というのは、心のことです。
我々の心ですが、仏教というのはひとつのことをいろんな表現をする場合があるのですが、我々の霊魂のことです。それが昏昧、昏睡状態になってくるというのですね。
精神朦朧としてくる。つまり我々人間は、臨終のときになって神識昏昧になる。
そしてそのときになったら、なにが善いことでなにが悪いと言うことがわからない。
そうすると、枕元に善知識が居て諭したってこれはわからないわけです。悔いる事さえわからんということも、あるということです。
三、
「一切衆生臨終の時、刀風形を裂き死苦来たりしめ大恐畏を生ず。――― 又若し人、臨終の時一念の邪見を生ずれば増上の悪心なるをもて即ち能く三界の福を傾けて即ち悪道に入るなり。」
「一切衆生臨終の時、刀風形を裂き」
これは以前にも申したとおり、死ぬときに肉体と霊魂を刀で切り離される。心識が、肉体からはなれていく。
そのときに肉体から離れるときにもの凄く痛い。
能かも刀でもって、魚屋さんを見ていたら魚を料理するときに骨の間を包丁でそいでいきますね、ああいうことですね。
それを風であるけど、まるで刀のような風で我々の精神と肉体とを切り離す。
そのときの痛みですが、その痛みは人によっては断末魔ということになるわけです。
が、これは人事ではないですね。
和尚さんは聞いたことがあるそうですが、それは大きな声を出すそうです。
今死んでいくという人が、うあああ・・・といって、大きな声を出すから何事かと思って隣の部屋からとんでくるというのです。
「死苦来たりしめ大恐畏を生ず」
死の苦しみが襲ってきて大きな恐怖が起こってくる。
「。――― 又若し人、臨終の時一念の邪見を生ずれば増上の悪心なるをもて即ち能く三界の福を傾けて即ち悪道に入るなり。」
今これから死んで行くというときに、ふっと、邪険が起こってくる。邪(よこしま)な心が起こってくるというのです。
例えば、日頃は忘れていたある人のことをぱっと思い出してきて恨む。あの人にあんなことをされたということを、今まで忘れていたことが、死ぬ間際になってふっと起こってくる。という例えです。
増上の悪心というのは、あとにも出てきますが、臨終の一念は、日頃の百年の業に勝るという言葉があるのです。臨終のときのその一瞬の状態というのは日頃の百年の業に勝るというのです。
例えば、健康な我々のこと状態が百年ですよ、百年間我々が善い事をしたとします、善い事ずくめで一生暮らしてきたとします。その人が死ぬという臨終の一念に、はっと邪険が起こってくる。今まで思っていないのに死ぬ間際に邪険が起こったとしますと、その臨終の一念で百年の業を打ち消してしまうのです。せっかくの百年の業が一瞬にして打ち消されてしまう。
そしてまたその逆もあるわけです。
百年間悪ばっかりしてきた人が、ところがこの人が臨終のときにはっと仏心が起こった。
そしたらその百年の業が消える。
善悪ともに臨終の一念はそれぞれ百年の業を消すのです。
この場合は、悪心ですね。邪険ですからね。増上というのは非常に強いという意味ですね。
だから三界の悪いところの福を傾けて、悪いところばかりではない、いいところもありますね。
人間界も幸福な人もありますし、天上界も、ずっと上へいくほど幸福な三界の福。
そういうところへいけるような場合もあるのです。
極楽往生できなくても三界の善い所へ生まれていくこともできる場合もあるのです。
ご記憶がございましたらおさらいとして頂きたいと思います。
意味がありまして、その一つは、説願の心境といいますか一心といいますか、その一念。
臨終の説願の一念。
もうひとつは、臨終のときの一遍、十遍の念仏という意味の一念。
その二つの意味を含めて頂いたつもりです。
この言葉の臨終ということは、後々の仏教の言葉でありますけども、お医者さんがよくお使いになりますね、ご臨終ですと。
然し、本来の仏教の臨終というのは、まだ死んでいない、これから死んで行くというときです。
臨むというのは、死に臨むということですから、死ぬということは終わりということですから、その終わりに臨むのですから、そこにいく時かの時間があるわけです。
そのときのことを臨終というのです。
その臨終の心のもちかたですね。
それが臨終の一念です。
その臨終が如何に大事であるかということをお話したいと思います。
私たちは、今は健康でいたとしましても、いつかは必ず死ぬときがくるわけです。
その死ぬときも、現在のような冷静な正常な心境でもって死んでいくことができるんだと、なんとなくそう思いがちなんですね。
無意識的にそう思えてくるのですね。
ところが、そういう方もいらっしゃいますけれども、なかなかそうはいかない方もいる。
一、
「怱爾(こつじ)に無常の苦来逼(らいひつ)すれば精神錯乱して始めて驚忙(きょうぼう)す。」
いままでまだ死ぬと思うていなかったのに、突然、苦痛が起こってきて、もうここで死ぬのかな、というような状況に追い込まれたというのですね。
或は、病気が刹那に起こってくるとか。或は、交通事故に遭って、死ぬほどの重傷になったとか、これはひょっとしたら死ぬかもわからないというようなときですね。
怱爾に無常の、というのは死ぬということです。
死が来たり逼(せま)るわけです。
そして驚いて我を忘れてしまうということですね。
これは中国の善導大師のお言葉です。
二、
「対名將(だいみょうまさ)に終わらんとして悔懼交々(くげこもごも)至る。 あらかじめ善を修せずして極めるに臨みてまさに悔ゆるとも何ぞまさに及ばんや。」
― 無量寿経 ―
「対名將(だいみょうまさ)に終わらんとして悔懼交々(くげこもごも)至る。」
とは、今これから死んで行くということに追い込まれたときに、いろんな後悔や懼(おそれ)が交互にあれも起こりこれも起こり、いろんなことが起こってくる。
「あらかじめ善を修せずして極めるに臨みてまさに悔ゆるとも何ぞまさに及ばんや。」
今までになにも善いことをしていない。
後生というのも考えずに、この世はこれで終わりだというふうなことだけしか考えていないんですね。
そして命が終わるとき、つまり臨終を迎えるときに、そのときになって後悔しても遅い。
所謂これを「宿善」といいますが、宿とは先の世、前世のことです。
前世の積んだ功徳ですね。
所謂これが我々のこの世の運命ですね。
宿善によって仏縁にも出遭える。
宿善にも深い浅いがございますがね。
兎に角、仏法だけではなくて、日常のことの致すところということですが、宿善があればよろしいのですが、宿善が何も無いということになると、死が近付くと顛倒、錯乱が起こってくるわけです。
と、お経には説いてあるわけです。
それからもうひとつ、これは他のお経から見つけた言葉ですが、「閻浮提の衆生、命終のときに臨んで神識昏昧」閻浮提というのは、この現在の地球です。この神識というのは、心のことです。
我々の心ですが、仏教というのはひとつのことをいろんな表現をする場合があるのですが、我々の霊魂のことです。それが昏昧、昏睡状態になってくるというのですね。
精神朦朧としてくる。つまり我々人間は、臨終のときになって神識昏昧になる。
そしてそのときになったら、なにが善いことでなにが悪いと言うことがわからない。
そうすると、枕元に善知識が居て諭したってこれはわからないわけです。悔いる事さえわからんということも、あるということです。
三、
「一切衆生臨終の時、刀風形を裂き死苦来たりしめ大恐畏を生ず。――― 又若し人、臨終の時一念の邪見を生ずれば増上の悪心なるをもて即ち能く三界の福を傾けて即ち悪道に入るなり。」
「一切衆生臨終の時、刀風形を裂き」
これは以前にも申したとおり、死ぬときに肉体と霊魂を刀で切り離される。心識が、肉体からはなれていく。
そのときに肉体から離れるときにもの凄く痛い。
能かも刀でもって、魚屋さんを見ていたら魚を料理するときに骨の間を包丁でそいでいきますね、ああいうことですね。
それを風であるけど、まるで刀のような風で我々の精神と肉体とを切り離す。
そのときの痛みですが、その痛みは人によっては断末魔ということになるわけです。
が、これは人事ではないですね。
和尚さんは聞いたことがあるそうですが、それは大きな声を出すそうです。
今死んでいくという人が、うあああ・・・といって、大きな声を出すから何事かと思って隣の部屋からとんでくるというのです。
「死苦来たりしめ大恐畏を生ず」
死の苦しみが襲ってきて大きな恐怖が起こってくる。
「。――― 又若し人、臨終の時一念の邪見を生ずれば増上の悪心なるをもて即ち能く三界の福を傾けて即ち悪道に入るなり。」
今これから死んで行くというときに、ふっと、邪険が起こってくる。邪(よこしま)な心が起こってくるというのです。
例えば、日頃は忘れていたある人のことをぱっと思い出してきて恨む。あの人にあんなことをされたということを、今まで忘れていたことが、死ぬ間際になってふっと起こってくる。という例えです。
増上の悪心というのは、あとにも出てきますが、臨終の一念は、日頃の百年の業に勝るという言葉があるのです。臨終のときのその一瞬の状態というのは日頃の百年の業に勝るというのです。
例えば、健康な我々のこと状態が百年ですよ、百年間我々が善い事をしたとします、善い事ずくめで一生暮らしてきたとします。その人が死ぬという臨終の一念に、はっと邪険が起こってくる。今まで思っていないのに死ぬ間際に邪険が起こったとしますと、その臨終の一念で百年の業を打ち消してしまうのです。せっかくの百年の業が一瞬にして打ち消されてしまう。
そしてまたその逆もあるわけです。
百年間悪ばっかりしてきた人が、ところがこの人が臨終のときにはっと仏心が起こった。
そしたらその百年の業が消える。
善悪ともに臨終の一念はそれぞれ百年の業を消すのです。
この場合は、悪心ですね。邪険ですからね。増上というのは非常に強いという意味ですね。
だから三界の悪いところの福を傾けて、悪いところばかりではない、いいところもありますね。
人間界も幸福な人もありますし、天上界も、ずっと上へいくほど幸福な三界の福。
そういうところへいけるような場合もあるのです。
極楽往生できなくても三界の善い所へ生まれていくこともできる場合もあるのです。
作品名:和尚さんの法話 「臨終の一念」 作家名:みわ